2017 5 台詞表現について

「いい演技とはなにか?」について考えてみたいと思います。いままでに読んだ演劇関係の本で、印象に残っている、演技について書かれたものを以下にいくつか引用します。

 俳優が他人の書いた言葉を話すということは、すなわち自分のコンテクスト[一人ひとりの言語の内容、一人ひとりが使う言語の範囲:引用者注]を、ある程度、自由に広げることができるということなのだ。演ずるということの本質はここにある。
(平田オリザ著「演劇入門」)

 時間は「体」にとりついている。(略)それは言ってみれば、人の「敗北の記憶」だ。「体」は「時間」に敗けつづけてきた。
 そして、演劇には、その起点に、この「敗北の記憶」を消し去ろうという野心が潜んでいるのだと私には思えるのだ。(略)
 「時間」にとりつかれた「体」が、自らに「別の時間」をとりつかせようとする、この野心。
(岩松了著「食卓で会いましょう」)

 確かに演技者も、戯曲の指定する劇中人物にふさわしい存在となることが要求されているから、ある種の「変身」をすることになるのだが、あくまでもそれは、「仮にそうする」のであって、「真にそうなってしまう」のではない。つまり、素としての演技者をAとし、戯曲の指定する劇中人物をBとし、「虚空」に対応する存在をCとすれば、AはBになり切るのではなく、AはBになるかに見せてCとなるのである。
(別役実著「別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ」)

僕はこれらの本から、役者の仕事は、作家(他人)の考えた言葉を、自分の言葉のように言わなければならないこと、そして舞台に流れる非現実(フィクション)の時間を背負うこと、また、素の自分ではなく、しかし別人でもないという風に、舞台上に存在しなければならないことを学びました。短絡的な解釈かもしれませんが、アタマでは一応理解できているつもりです。けれどもアタマでそう理解しながら、その一方で僕のカラダは「じゃあいったい、具体的にどうすりゃいいんだ?」と訴えているような気もします。

(カラダを使う)実際の稽古場において、一番よくあるダメ出しは、「その台詞の言い方が違う」などの、台詞の表現に関することだと思えるので、自分のカラダの訴えにも応えるため、考える対象の間口をせばめて、「演技」のうちの、「台詞表現」について考えてみたいと思います。

比較的多いダメ出しに、「自分の台詞を、相手にちゃんと当てる」というのがあります。むかし参加したある演出家のワークショップで「大事な台詞は、相手の眉間を撃ち抜くようなイメージで台詞を言え」と言われたことがあります。僕はその「相手に当てる」というのがどうも苦手で(「いまの台詞が相手に当たってない!」と叱られたりしました)、「相手にどういう風に当てるか」が課題となり、腐心した時期がありました。しかしひそかに思っていたのは「普段そんなに律儀に相手に当てながら、生活していないんじゃないか」という疑問です。以前読んだ、「言語」について書かれた本から少し引用します。

 ぼくは、言語には二種類あると考えています。
 ひとつは他人に何かを伝えるための言語。もうひとつは、伝達ということは二の次で、自分だけに通じればいい言語です。(略)たとえば胃がキリキリ痛んで、思わず「痛い!」と口に出てしまったとする。この時の言葉は、他人に伝えることは二の次です。(略)
 他人とコミュニケートするための言葉ではなく、自分が発して自分自身に価値をもたらすような言葉。感覚を刺激するのではなく、内臓に響いてくるような言葉――。
(吉本隆明著「ひきこもれ」)

たとえばお腹がペコペコの子供がいて、その子供が母親に「お腹空いた」と食べ物をねだる時に、思わず呟いてしまったような言い方(つまり自分に通じるような言い方)をする場合があると思います。独り言のような言い方をして、実感をこめているとも考えられますが、この子供のように、僕たちも普段の会話のなかで、相手にちゃんと当てるのではなく、自分だけに通じる(つまり自分にちゃんと当てる)ような言い方をしているときが、少なからずあるように思います。もちろん相手に当てる言い方を否定している訳ではなく、一方の極に「相手の眉間を撃ち抜くように言う」という言い方があるならば、もう一方の極には「自分のハラワタをえぐるように言う」という言い方があるように考えられます。

いま述べた、言葉の発し方とはまた別の側面から、「台詞表現」について考えてみます。(日本の芝居の)台本は普通、日本語で書かれてますので、台詞を言うということは、その日本語に接触していくことだという風にも考えられます。以下にまた引用します。(日本語を二つの種類に分けて考えています)

  一、 客体的表現
  二、 主体的表現
 一は、話し手が対象を概念としてとらえて表現した語です。「山」「川」「犬」「走る」などがそれであり、また主観的な感情や意志などであっても、それが話し手の対象として与えられたものであれば「悲しみ」「よろこび」「要求」「懇願」などと表現します。これに対して、二は、話し手の持っている主観的な感情や意志そのものを、客体として扱うことなく直接に表現した語です。悲しみの「ああ」、よろこびの「まあ」、要求の「おい」、懇願の「ねえ」など、〈感動詞〉といわれるものをはじめ、「……だ」「……ろう」「……らしい」などの〈助動詞〉、「……ね」「……なあ」などの〈助詞〉、そのほかこの種の語をいろいろあげることができます。
(三浦つとむ著「日本語はどういう言語か」)

おそらく分かりやすく言えば、客体的な表現とは、物事を指し示す(指し表す)名詞や動詞などの語のことで、主体的な表現とは、感動詞や終助詞などの(感情を直接こめやすい)心の声のような語です。役者のなかには時々、台本上の台詞には書かれていない「だよ」や「じゃん」などの語尾を付けたがるタイプの人がいますが、自分の感情表現が台詞の枠内でおさまらず(あるいは表現したい感情が台詞とうまくかみ合わず)、感情の語である語尾を追加したくなっているのだろうと考えられます。また、客観的な表現である、たとえば「富士山」という固有名詞には、「富士山」に対する自分の気持ちやイメージを持って言うことで、間接的に感情が表現ができるのかもしれません。ただ、全ての語に感情をこめればいい訳ではないだろうし、こめ過ぎるとしつこくなりそうです。ちなみに僕は子供の頃(いまも少しそうなのですが)演歌などの歌謡曲がなんだか苦手でした。聴いていて、その歌い手の感情を一方的に押し付けられ、泣き言をしつこく聞かされているような気がしたからです。でも例外的に、たまたま歌番組を見ていて聴いた、美空ひばりの「愛燦燦」には、思わず聴きほれてしまったという記憶があります。ベタベタとしてなく、かと言って、さらりと歌っていた訳でも全くありません。

 人生って 嬉しいものですね

という歌詞があります。その歌唱に豊かな奥行きがあるように感じたのは、「人生」という名詞、「って」という格助詞、「嬉しい」という形容詞、などのそれぞれの語に対する、美空ひばりの接触の仕方が、表現力になっていたのではないかと考えられます。

次に台詞の表現の「声」について考えたいです。以前、とても明快なストーリーでコメディタッチの芝居を(余ったチケットが安く手に入り)一人で観にいったことがあり、観劇中、僕はとくに面白いと思えない場面なのに、僕以外の観客は全員爆笑をしていたりして、まるで知らない国に迷い込んでしまったような、不安な気分になったことがあったのですが、観劇後、自分がその芝居に白けた理由を、落ち着いて考えてみたところ、その一番の点は、登場人物でお嬢様やチンピラなどが出てきたのですが、それを演じる役者が、一般的なイメージをなぞるような(いかにもお嬢様やチンピラっぽい)声をつくり、観客に向かって台詞を表現していたという点でした。

そのお嬢様は上品な外向きの声を常に使っていて、母親(家族)と話す時も、父の友人(他人)と話す時も、幼なじみ(親友)と話す時も、声の出し方が変わりません。しかし僕たちの普段の生活には、オフィシャル(公的な外向きの)時間と、プライベート(私的な内向きの)時間があって、たとえば忙しく仕事をしている時と、のんびり友達と馬鹿話をしている時では、声の出し方が全く変わるように、基本的には公的か私的かの時間の違いで、声の質や量が変わるはずです。お嬢様役を演じた女優さんは、「舞台に立つこと」を「外向きなこと」ととらえていて、台詞の全部を公的な声で表現しているといった印象でした。観客が本当に聞きたいのは、その人自身の内からの、私的な声の方だと思います。以下にまた引用します。

 中島みゆきの「ホームにて」と「まつりばやし」を聴いた。そこに存在した声は、きらびやかな世界へ出かけた声ではなく、華やかな衣装で着飾った声でもなく、素朴で普段着の声の姿であった。(略)
 では、声が素朴で普段着のままであるとき、そこにはどんな世界があらわれるのだろうか。もちろん、きらびやかで華やかな世界はあらわれてこない。そのかわりに、その声の主の生活空間や生活感性が自然なかたちであらわれてくる。この声の主が、どんな裏通りを好んで歩き、どんな八百屋で野菜を買い、どんな夕食を作り、どんな洋服を好んで着て、どんなお店でお茶を飲み、友だちとどんな会話を楽しみ、どんな願いごとを胸に秘めているのか。そんな声の主の生活空間や生活感性、つまり《生活地誌》みたいなものが自然なかたちで声にあらわれてくる。だから「ホームにて」や「まつりばやし」を、ぼくたち観客の方からいわせれば、じぶんのよく知っている女友達が歌っているように聴いてしまう。
(菅間勇著「中島みゆき論」)

最後に考えたいのは、台詞の言葉の量のことです。映画と違って舞台の芝居は、作品の背景の情報(場所、時代、人物関係など)を観客に伝えるためには、それらを全て台詞のなかに組み入れなくてはなりません。さらに物語の情報が加わるので、その結果どうしても、台詞の量が増えていき、口数の多い人物ばかりが登場するという事態を招きがちです。以前僕は別役実さんの台本が好きだった時期があって、何作か上演されたものも観にいったのですが、楽しく観劇しながらも、途中からいつも、「なんだか饒舌な人たちのお喋り大会みたいだ」と心のどこかで思ってしまう自分がいました。当たり前ですが世の中お喋りな人たちばかりではないし、口をきかなくてはならない、なにかの事情がある場合をのぞくと、人は話したいという欲求が生まれなければ、黙ってそこにいるはずです。以下に(詩について書かれたものですが)引用します。

 もし内部圧力が著しく弱まったときはどうするか、ぼくも便宜上内部圧力[強い表現意慾:引用者注]という言葉を使ってしまうのですが、このときは、詩を書かなければいいのです。詩は、個人のものであると同時に、共同体のものです。(略)蜂でも蟻でも同じだと思いますが、ひとつの個体が役割を終えると、必ず別の個体がその役割を担って現れています。だから書こうという衝動があればどんどんどんどん書けばいい。そういう衝動が無くなったら、書くべきではありません。沈黙です。詩の隣にいつもあるもの、いつも詩と一緒に歩んでいて、詩に力も与えるけれど詩をのみこんでしまうこともあるもの、これは定型ではなくて沈黙というものです。
(辻征夫著「私の現代詩入門」)

台詞を喋れば喋るほど、情報量と引き換えに、失うものもある気がします。「台詞表現」の隣には、「沈黙」があると考えたいです