2017 10 集団構成について

 今年の夏に約5年振りに、自分で芝居の企画をして公演を打ちました。以前は劇団員5人の劇団体制で行ってましたが、僕以外は皆いま、芝居の活動から離れているので、今回は公演するための準備を、全て一人でやりました。しかし孤軍奮闘というような、大変さはあまり感じなく、むしろ、自ら決断したり計画を立てたりする事が久し振りで、その事に心地良さのようなものを感じていました。なにか仕事をする際に、納得いかないやり方で誰かに指示された時、決定権が自分になければ、我慢する他ありませんが、一人だけでやっているのなら、周りの意見に左右されず、自分なりにゆっくり考える事ができます。一人でいるのは心細い場合が多いですが、たった一人だからこそ、心強くなれる場合もあり得るのだと思いました。

 けれどもそんな風に思えたのは、一人で心細いのは準備期間の今だけで、稽古初日を迎えれば状況が変わると分かっていたからかも知れません。芝居は座組という集団で行う表現で、演出を担当する僕はもう一人ではなく、役者の方々と関わる日々が始まります。逆に、その座組に加わる役者からすれば、演出家や他の役者と関わる日々が始まると言えます。芝居をやり続けている人は当然、芝居が楽しいから続けているはずですが、その楽しさの中の一つに、新たな出会いへの期待感みたいなものがあるように思います。それは例えば、僕が昔(30年位も前ですが)中学を卒業し高校へ進学する際に、学区の範囲が広がって色んな所から人が集まり、きっと素敵な仲間に出会えるだろうと夢想していた時の気持ち、そういったものに近いような気がします。卒業する嬉しさは他にも、髪を伸ばせる事(校則で男子は全員丸坊主でした)、校内を跳梁していたヤンキー達に会わずに済む事(授業中に机の中でクラッカーを鳴らしたり、休み時間に他生徒に水風船を投げ付けたりしてました)などありましたが、何よりも楽しみだったのは、高校での新たな出会いだったと記憶しています。今回の芝居の準備中、参加して欲しい方々に出演依頼をして座組のメンバーを揃えながら、そういう期待感に似た思いを抱いていました。

 少しだけ30年前の話を続けますと、入学を楽しみにしてましたが、高校では結局とくに親しい友人もできず(休日は中学時代の友人とよく遊んでました)、校則も丸坊主から開放されただけで相変わらず息苦しく、また勉強科目は増えて面倒になり、現実は思った通りにはならないと失望しました。それから30年経った今は、僕も大分いい歳をした大人なので、何事も期待し過ぎず、現実的に考えて臨む事が肝要だと思っています。しかしせっかく久し振りに自分の責任で行う公演でもあるし、「旅行は計画している時が一番楽しい」という言葉にあるような、心躍りを感じながら準備を進めていました。

 そんな準備期間中、演出をする立場としてまず考えるべきだと思ったのは、人とどう関わるかについてでした。座組という集団を構成すれば(公演終了までという期間限定ではありますが)その内に人間関係が当然生じるからです。出演者の方々はそれぞれ(劇団に所属していたり、フリーであったり)活動の仕方や拠点、交友関係が様々です。なので、「他の芝居の悪口を言わない」と心に決めました。また、演出としての姿勢や態度についても考えてみました。演出家はその役目上、周り(役者陣)からセンスの有無が問われているような、プレッシャーをつい感じてしまうものなので、下手をするとそれに打ち勝つために、自分のセンスは良いものだと信じ込み、ハッタリをきかせた気取った発言をしてしまう場合があります。「(自分は才能ある人間だという風に)気取らない」と、更に心に決めました。そしてその上で、どういう心構えで関わっていくべきかを考えてみました。参考として思い浮かんだのは、昔読んだ短編小説にあった文章です。以下に引用します。(主人公はインタヴュアーの仕事をしていて、インタヴューする際のコツについて考えています)

 インタヴュアーはそのインタヴューする相手の中に人並はずれて崇高な何か、鋭敏な何か、温かい何かをさぐりあてる努力をするべきなのだ。どんなに細かい点であってもかまわない。人間一人ひとりの中には必ずその人となりの中心をなす点があるはずなのだ。そしてそれを探りあてることに成功すれば、質問はおのずから出てくるものだし、したがっていきいきとした記事が書けるものなのだ。それがどれほど陳腐に響こうとも、いちばん重要なポイントは愛情と理解なのだ。
(村上春樹著「タクシーに乗った男」)

 台本も書き上げ準備万端な状態で稽古初日を迎えました。座組は(出演依頼は断られる場合も当然あるので)偶然性を含みながら構成される部分もありますが、今回のメンバーは意欲的な面々が集まったと思えて幸運を覚えました。稽古場は役者陣の(台本や、初共演の相手等に対する)新鮮さが明るく作用しているという印象でした。僕はこの序盤のうちに、稽古の指針のようなものを決める必要を感じて考えました。簡単に述べると以下になります。「場面のイメージを僕が明確に伝え、それを再現してもらうという方法を取れば、想定内で上手く押さえたような芝居になってしまい、本当のやり甲斐を得られない。同じ事をなぞるような稽古を毎回続けても詰まらないし、稽古期間は一ヶ月半あるので、その日数を使って、想定外へ出ていく事を目指す」

 稽古序盤が過ぎて日が経つに連れて、新鮮味は徐々に薄まっていきました。それから中盤に入ると、近付いてくる本番をみんな意識し始めたのか、演出の僕だけでなく役者陣も、自分の演技や他の役者の演技が本番に耐え得るものかどうか、客観的な視点を持ち始めたように感じました。例えば、ある場面の稽古をしていて、僕(と周りで見ている役者)が腹を抱えて笑うほど面白いとその時感じたのに、次の日その場面の稽古をすると、昨日の成功を繰り返しているはずなのに、今日は不思議とくすりとも笑いは生まれず、詰まらなく思えるといった事が起こり始めました。芝居の稽古は基本的に反復なので、何回も見ていて見飽きただけと考えれば、気にせずそのまま場面を固定しても良さそうです。しかしそれだと「想定外へ出ていく」にはならないし、今日の稽古場の中で詰まらないと判断されているのなら、それを認める事が大事だと思いました。けれども同時に、その自分で決めた「想定外に出ていく」という言葉に、自分が厳しく問われているような気持ちになりました。なぜなら僕はそれを理屈だけで考えていて、どう具現化をしていくかについての、道筋や手立てを持ち合わせていなかったからです。

 ある意味では、演出家はいつも詐欺師だ、つまりその土地についてなんにも知らないくせに、暗中模索で旅行ガイドをつとめる男だ。
(ピーター・ブルック著「なにもない空間」)

 昔読んだ演劇関係の本にあった、以上の文章をふと思い出しました。そんな迷路のような状況に、自分が手ぶらで放り出されてしまったように思えました。なにか脱出する方策を考えたいのですが、稽古前に念頭に置いた「悪口を言わない、気取らない、愛情と理解」という言葉ではもう間に合わない所にいると感じ、何も頭に浮かびません。そのまま途方に暮れそうになり、迷子のような心細さを覚えました。けれども今、僕は一人でいる訳ではありません。悄然としている場合ではなく、座組に力を借りようと思いました。

 先に書いたように今回のメンバーは意欲的で、しかも僕に協力的でした。なので、僕の良き理解者に皆なってくれるだろうといった、油断がどこかあったのかも知れません。でも当たり前ですが一人ひとり、僕と同じように(あるいは僕以上に)生きてきて悲喜哀歓を味わってきた、それぞれの歴史があるはずで、みんな別個に存在していると考えれば、理解者ではなく他者のはずです。迷路脱出の方策を持たない僕は、「手ぶら」というのを武器に稽古場へ行き、稽古中に役者陣が、台本の理解者ではなく個人の役者として、演技を通して感じたであろう疑問(場面の展開が何やら都合良すぎないか?書かれている台詞が説明的ではないか?装飾的ではないか?等)を見逃さないよう心掛け、また、自分が場面をどう良くすればいいか分からない時は、正直に分からないと困ろうと思いました。なぜならそうすれば、座組の一人ひとりもそれぞれ困って、同じ問題を考えてくれると思ったからです。そうやって一緒に頭を抱えていると、ふと誰かから、場面の硬直を解きほぐすような、風通しの良くなりそうなアイデアが湧くという事が起こり始めました。早速そのアイデアを実践し、そして場面が新たに息づくような瞬間を味わえた時には、稽古場は喜びに包まれたと言えます。しかしもちろん、その日の成功は次の日になると、無効になってしまった事もありましたが……。

 そういった稽古終盤の、一人ひとりが芝居の事を思い詰め、何だか無我夢中な状態になっていた瞬間が、この上なく楽しかったと思います。芝居作りを旅行に喩えてみるなら、やはり「旅行は計画している時が楽しい」ではなくて、実行している途中の今が、一番楽しいのだと思いました。その時僕の取っていた最終的な、集団を導く方法は、「手ぶら」で皆の前に立って、「困る」というものでした。