6月以降

緊急事態宣言が解除された後、小池都知事は、「ウイズ・コロナ」宣言を発表しました。
横文字カタカナ語はもう本当に、いい加減うんざりだなと思ってしまいました。

小池知事についての個人的な印象を言いますと、
たとえば、僕の家の近所の公園に、「喫煙時は周辺環境へ十分配慮し、受動喫煙にご協力を! 吸い殻は持ち帰りましょう」と書かれた看板が立っていて、僕もそれに従って、煙草をそこで時々吸っていたのですが、
看板の内容が最近突然、「健康被害予防のため、園内全面禁煙!」に変わりました。新しくなった看板にある、冷たい言葉の背景に、小池知事の顔が浮かびあがります。つまり、好印象とは言えません。

6月に入って、予断を許さない状況と言われながらも、例えば街なかの人通りなどは、コロナ以前とほぼ変わらない程、増えてきたように感じました。
第二波、第三波が来ずに、収束に向かうことをもちろん願っていますが、その気持ちとはまた別に、五味太郎氏の「本当にコロナ前に戻りたい?」という言葉が、つよく心に残っています。

むかし読んだ哲学史の入門書にあった、

「いま、社会はあまりにも複雑化し、個人の影響が及ばない巨大なシステムのように感じられている。……これらの思想〔ポストモダン思想:引用者注〕では、個人の自由や主体性は社会構造に(無意識のうちに)規定されていることになるため、社会を変革しようとする主体的な行為さえ、実は最初から社会構造に組み込まれ、方向づけられていることになってしまう」
(山竹伸二著「フシギなくらい見えてくる! 本当にわかる哲学」)

という文章をヒントに、社会についてすこし考えてみれば、

僕たちは物心ついた頃から、システムのようなもの(学校や親などの世間)に「ああしろ、こうしろ」と、外側から言われ続け、自分の内側では「どうしたらいいのか?」「どうしていいか分からない」と考えながら、きりきり舞いになって生きてきて、
そのきりきり舞いな感じというのは、これから死ぬまで続くのかもしれません。

またシステムのようなものは、先日ニュースで観た「さいたま市で、全市立学校の児童・生徒計約10万人が、医療従事者らに向け全員で拍手する催しが行われた」というふうに、
正しそうな優しそうな顔をして、力まかせに何かを押しつけてくる時があります。
拍手を強制されるなんて嫌だと思った生徒もいたはずなので、つよい違和感をおぼえました。

「個人の影響が及ばない巨大なシステム」なのかもしれませんが、なるべくきりきり舞いしない方途をさぐり、おぼえてしまった違和感は大事にし、
これから状勢がどう動くか分かりませんが、五味氏が言うように「乗りこえていくというより、前よりよく」なれたらと思います。