2017 4 芝居について

次回公演の稽古に臨む、その準備として、「いい芝居とはなにか?」という問い(言葉にすると気恥ずかしいですが)について考えてみたいです。でも、「いい芝居とはなにか?」という話を誰かとしたり、色んな作家の演劇論を読んでみたりすればするほど、頭が混乱してしまうのは、人によって芝居に対する、好みや課題の持ち方が違うからで、おそらくこの問いは、絶対的な正解のない、曖昧なものだろうとも思っています。ただ、僕が役者としていくつかの舞台に参加した体験を根拠に言うのですが、一般的に信じられている「いい役者とはなにか?」については、以下のように答えられると思います。

「台本(物語)上の役割をきちんとこなしつつ、自分なりの工夫や遊びができる役者」

一番大事なのは作家の生み出した物語世界だから、まずそのなかに入っていき、正しい解釈で台詞を言って行動をおこない、その上で、物語をはみ出さないよう注意しながら、自分なりのアレンジを加えていく、そういった役者のイメージです。僕も今までそのイメージでやってきたことが多いのですが、じつはひそかにそのやり方に、違和感も感じていました。なので、この答えを問い直し、それを「いい芝居とはなにか?」を考えるための入り口にしてみたいと思います。

役者が芝居をやり始めた動機は、人によって様々でしょうが、根本的なところで多少なりとも共通している、ひとつの思いがあるはずで、それは(ストレートな言い方ですが)舞台の上で自分を実現し、生き直したいという思いだろうと考えられます。演技をする際の理想を言えば、台本で設定された登場人物が起こす舞台の上での行動が、人物を演ずる役者自身の、そういった思いとシンクロするといった状態です。しかし実際は理想の通りにはいかず、台本中心に稽古が進められ、物語における登場人物の記号的な意味を大切にするよう求められます。当然その要求と、役者の思いは矛盾するので、対立を回避するために、役者は自分の思いをいったんおいて要求を受け入れ、役柄がそれらしく見えるように振る舞うことや、台詞の内容がよく伝わる言い方を考えることなどを、与えられた課題として取り組み始め、その結果、稽古場でなされる演出家と役者の話は、台本解釈の話、交通整理(舞台上での行動線の整理)の話、(物語がスムーズに展開するための)段取り的な話が主になっていきます。僕が感じた違和感は、それらは機能的でどこか味気なく、本当に大切なことはそんなことではないように思えたという不満でした。

(意地悪な言い方かもしれませんが)大抵の演出家は、役者が解釈を間違えていないかや、台本の世界観をはみ出していないかをチェックする、監視役のようになり、また下手をすれば、主観の強い思い込みに近い価値観を押し付けようともしてきます。もちろんそれは、悪気があってのことではなくて、演出家は、台本の世界観(つまり物語)によって観客を楽しませることが、自分の使命だと感じているからです。しかし素朴な疑問として、以下のようなことを感じます。

観客は、物語を楽しみに、芝居を観に来るのだろうか?

もし物語自体を楽しみたいのなら、わざわざ劇場に足を運ぶまでもなく、自宅の部屋で寝っ転がって、小説や漫画、歴史の本を読んだら済むことではないかという気がします。たとえば(分かりやすい例を挙げれば)太平洋戦争に運命を翻弄された家族を描いた芝居があるとして、作家が台本を書くために取材した戦争に関するエピソードや、当時の生活様式が再現され描かれた場合、その知識に観客はときに感心したり、また台詞のなかに含まれた(たとえばヒューマニズムあふれる)名文句のような言葉に、ときに心を打たれたりすることがありますが、戦争について知りたいのであれば、ドキュメンタリーを観た方が良いし、名文句にうなりたいのであれば、人生哲学の本を味読した方が良いはずです。観客は、自宅で作品を鑑賞するのではなくて、わざわざ劇場まで出掛けて行って客席に座って、目の前の舞台でおこなわれる芝居をライブで鑑賞します。それは、たとえばスポーツの試合などのイベントを見物し、会場の熱気を体感することと(その場所まで足を運ぶという点で)似ています。ではなぜ観客は、スポーツ観戦ではなくて、観劇を選択したのでしょうか?

「芝居はお祭りみたいなものだから、楽しくやろう」と誰かが言っていた(あるいはなにかで読んだ)のをふと思い出したのですが、言うまでもなく、お祭り気分を味わいたいなら、実際の祭りに行って騒いだ方が楽しいはずです。観客は声をあげて騒ぐことなく、だまって大人しく客席に座り、舞台に現れた役者がおこなう芝居という表現を観ます。観るうえで一番集中をおいている点は、もちろん演技する役者(人間)だと考えられるので、なぜ観客は観劇を選択したのかという問いは、芝居を通じて人間がみたいから、と答えられると思います。ではそれをさらに問えば、観客は、なぜ人間をみたいのでしょうか?

僕がひとりの観客として客席に座り、芝居を楽しんでいるのはどういうときか、というのを思い出してみると、僕が今まで生きてきて出会った印象的な人(たとえば少年時代の親友、憧れた先輩、好きだった先生、あるいは、ケンカしてしまったクラスメイト、怖かった先生、失恋した相手など)の記憶に、舞台上の人間が触れてきたときです。「こういうヤツいたな」とか「あの人に似てるな」と思えてくると楽しくなります。そういった人たちと(もちろん擬似的ですが)出会い直したい、また、新しいタイプの人とも出会ってみたい、といった期待を持って、僕は芝居をみているような気がします。台本の高い物語性や、物語上の役割に応じる演技の技術を期待している訳ではなくて、親近感を抱ける人間が、舞台の上に現れて、自分を魅了してくれることを待っています。なので台本というものは、そういう人間を表現するための、足掛かり(踏み台)に過ぎないのではないかと考えられます。さらに言えば、物語から遠ざかる(物語を人間の背後に退かせる)台本が、書かれるべきです。

改めて「いい芝居とはなにか?」という問いを考えたいのですが、この問いは違う言い方をすれば、「観客にとっていい観劇体験とはなにか?」になると言えます。僕が観客として一番期待しているのは、自分がシンパシーを感じる人間がおこなう、舞台での行動(つまり芝居)をみて、慰められるような感覚をおぼえたいということです。そしてそれは僕に限らないと思われ、観客はみんな程度の差はあれ、なにか満たされないものを抱えているから、わざわざ劇場に足を運ぶのだろうし、そこで慰められたいと望んでいるはずです。この「慰められる」というのは、一般的によく使われる「癒される」という言葉とは意味が違います。そのあたりを説明するため、以下に少し引用をします。(文学について語られたものですが)

たとえ何の利益にもならなくても、作家は書くことをやめないし、読む人もなくならない。なぜかと言えば、読者の立場から見て、どこかで自分が感じたのと同じことをこの筆者は感じているなという印象が持てれば、それは自分にとっての慰めとなり、勇気づけになるからです。
一方、筆者の立場からすれば、そういう読者がどこかにいることをあてにして、書いた甲斐があったという気分になりたいのです。(略)
文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。
(吉本隆明著「真贋」)

「慰め」は、一人きりの(孤独な)ときの心の内を、やさしく解きほぐすような作用をおよぼします。(かなりダイレクトな言い方ですが)表現者と自分(観客)の、孤独な魂と魂が触れ合って、「慰め」は起こると言えます。観客がそんな慰めや勇気づけを求めているなら、創り手が考えるべきは、どんな芝居がそれに応じられるかで、まずは、どんな台本が書かれたら良いかです。

さきに述べたように、台本を、人間を表現するための足掛かり(踏み台)ととらえつつ、作家は構想を練り始める訳ですが、もちろん簡単には書けそうにありません。現在、芝居を創ることの難しさは、新たに創造したつもりでも、もうすでに、どこかで誰かがやっているんじゃないかという、既視感のようなものにすぐ襲われてしまうということです。どんなものを創っても、なにかに似ている(類する)ものとして、レッテルを貼られてしまいそうな気がします。観客に、新鮮さを持って迎えられるような芝居を創るにはどうしたら良いのか、正直見当がつきません。けれども創り手は、在り来たりではないものを探すべきだし、驚かされ、魅了され、慰められるようなものを、観客は待っているはずです。その「観客が待っているもの」が「いい芝居」に違いありません。

最後に、目指す方向性のヒントとして、以下にまた引用をし、終わりたいと思います。

物語は文学作品のなかで必ずしも解決篇を必要としない。作者が謎と未知を創り出すのはいいとして、べつに解決を創り出すことに意味があるわけではない。読者は解決する物語が欲しいのではなく、有無をいわせず好奇心や判断力を集約させ、充たしてもらえる読みの体験が欲しいだけだ。
(吉本隆明著「消費のなかの芸」)

ことさら考えてみなくとも、この社会に演劇などなくてもいいものだ。なくてもいいものをあえて創っているのだから、観客にただ迎合するような芝居など創らない方がいいに決まっている。観客も創り手も、じしんのうちの「孤独感・いらだち・混迷」を、舞台という幻想の場を借りて静かに白熱化させたいという気持ちを抱いている。一方は観客席に、他方は舞台に。
(菅間馬鈴薯堂通信 第二号)