2004.12  散歩道楽「走れ恋人」関係者の皆様お世話になりました

 年の瀬ということで、例えば忘年会に誘われて、オツカレサマをレンコして、楽しくみんなで酔っ払い、女のコとも知り合って、今年のおもしろ失敗談で爆笑をとり、「素敵な人…」とあるコに思われ、会が終わって店を出て、そのコと賑わう駅前商店街を、肩を並べて歩きつつ、アドレス書かれた箸入れの紙を、恥じらいながらも渡されたりと、これは想像というか妄想ですが、きっといい風景に違いなく、駅へ着いて乗り場が別れて、笑顔で手なんか振ったりし、けれど問題はそれからで、実はかなり飲み過ぎていて、一人ホームで吐き気もよおし、胃から口へと逆流し、ほとばしり、涙目のまま近くに立ってた駅員さんと目が合って、消化酵素のアミラーゼ、ペプシン等が分解中の飲食物へおがくず撒かれ、それをほうきとちりとりで処理する駅員さんの後ろ姿と、傍らでうなだれる自分というのは、想像というかあり得る話で、悪い風景に違いなく、そんな風景を描かぬためには、飲み過ぎなければいいだけですが、僕の親父が若かりし頃、酔っていきなり電信柱に登り、そのてっぺんで月に向かって咆哮したという、親戚の間での伝説があって、遺伝の法則に従ったのか、僕も時折飲んで呑まれてしまいます。

 飲みの席で腹を割って話そうという意の“ノミニケーション”について思うのは、駄洒落だし余り使わない方がいいのではということと、酔って本音を話すこともないことはないとしても、痛く飲んだ酔っ払いは、内容分からず喋ってたりしてて、本心を語るのではなく酒に語らされているという、つまり語っているのはその人ではなく酒であって、しかもそれを自分の本心のように思い違え、さらに語らされるという悪循環で、あえて使えばその場合“BAD NOMINICATION”です。

 アルコールで酔うのとは別に、アドレナリンに関係しそうな熱狂とか陶酔とかいう酔い方もありますが、この場合も自分を見失いがちで、それが観客の立場ではなく、自分が何かを表現しようという際に、本当のところを離れてしまって、格好つけたり悪ぶったりなど、酔ってしまうのは禁物でしょうが、しかし実はこの文章は、ここまで書き至るのに、筆の進み遅く時間を費やし、つい少し飲み酒気を帯び、その状態で「酔うのは禁物」などと書いていまして、だけどその矛盾には目をつむり、この駄文を、締めくくらせて頂きます。