2005.9 |
先日警察署に連行されまして、連行というと手錠かけられ四方を囲まれ引っ張られて行く様なイメージですが、そこまでの特別な状況ではなく、ただ連れて行かれて色々と話を聞かれたり聞かされたりしただけでして、お断わりしておきますが、僕は前科者ではありませんけれども、以前酒がらみのある事で警察からやや重めの注意を受けた事がございまして、その記録の残っているせいか、警察知らずのキレいな方より割と連行されやすく、先日の件の詳細を言うと、パトロール中の年配の巡査にあるちょっとした事で呼び止められて、一応カバンの中身を見せてと調べられ、するとその巡査がカバンの中のペンケースから前にコンビニで買ったカッターを取り出して、「こういうの持ち歩いても軽犯罪法違反になるんだ」などと言い出したので、納得出来ず口答えしましたら、その意地の悪そうなブサイク面のジジイ巡査はご機嫌をお損ねになられまして、ジジイのヒマ潰しだったのか、あるいは点数を稼ごうとしていたのか知りませんが、とにかく署まで来いと連れて行かれ、「入れ」だの「座れ」だの命令口調で扱われながら、根堀り葉堀り僕の個人情報を聞かれたり、ジジイの説教を聞かされたりして、結局免許証のコピーを取られ「帰れ」と言われ解放されたという、理不尽な目に合いまして、全くもって何と言うか、その時の僕の感情は、わざわざ述べなくともご察し頂けると思います。
文句を言いたい気持ちは山々ですが、しかし冷静になって考えれば、警察の方々の中には親切なお巡りさんもいらっしゃいますし、先日の様な悪質なポリ公さんばかりではない訳で、またいくら嫌ったりしたところで世の中の平和は警察がいるからこそであり、秩序を保つために必要な存在に違いないので、逆らってはいけないというのが、当たり前であり常識です。 犯罪者とは法に背いて秩序を乱した者、また常識によるルールに違反した者であると言えるでしょうし、反対にそのルールを守っているのが善良な市民であると言えるでしょうが、“ルール”とはある規準で定められた事柄という意味な訳で、換言すると、人に不自由を与えて縛るものであり、誰でも個人の勝手な自由を貫くとルール違反の犯罪者になってしまいます。そうならないため自由は理性でもって抑えねばなりませんし、また常識によるルールによって、人は理性を要求されていると言えます。先日の件にまた触れますが、僕が感じたその巡査の苦手な所の一つを挙げれば、自分がそのルールをまるで体現しているかの様な態度でして、正しく体現しているかどうかは別として、そのルール自体の持っている、個人にはとてもかなわない強い力の気配を感じ、それに対して僕も少し、不自由さを抱いたのでした。 誰でもある程度の不自由をガマンするのは仕方ないというか当然であると思いますが、無理矢理何かを押し付けられたり等の強すぎる束縛は良くありませんし、僕の場合それが何より苦手な所があって、自分の今までを振り返って見ますと、地元とは違う県に進学したり、就職のため上京したり、そして退職を二回したりしていて、それらは束縛や不自由はヤダというのが一番の大きい理由です。しかし一時的な解放感は別として、本当の自由が得られたという思いを抱いた事は結局なく、退職後フリーターになった時の印象も、単に身軽になっただけで、身軽だから高くジャンプ出来そうだけど、なんか足場が弱く上手く跳べない感じだし、走り回ろうとしてもすぐ行き止まりにぶつかる様な、遠くに色んな景色はあってもそこまでの交通手段がない様な感じで、それ以前までに味わってきた不自由さとはまた違う、新たな不自由を味わってしまって、だけどその時はこっちの不自由の方がいいやと考え、ボンヤリしばらくムダな日々を過ごしてやろうと思ったのです。 そのボンヤリ過ごした時期ですが、僕はちょっと世間とは距離を置きたい気分になっていまして、ボンヤリ以前の社会人になろうとした僕が見た世間、いわゆる市民社会という所は、ルールギリギリにMY利益を求めるか、ルールを順守して常識にもたれ安心を求めるかのどっちかの大人たちが、会社やら家族やらのグループを作り、ひしめき合いつつもワラワラと蠢いている様な所で、その中でズブとく生き抜くのが立派な社会人だ、そのためにお前も自由を捨てろと、何だか強く迫られている気がして、そこから尻尾を巻いて逃げるが如くに、二回も会社を辞めた僕は、常識的に見れば甘ったれであり、その自覚もありましたが、「いつかはちゃんとしなきゃいけない、でもしばらくはボンヤリしちゃえ」というのが、自由を捨てなかったつもりでいた、その時の僕の心の声です。しかし前述しました通り、跳べない走れないという不自由、より本質的かもしれない不自由に、襲われ始めてしまったのです。 自由とは何か?欲望の解放という線でいけば、大金を浪費し、美食に酔って、淫蕩を尽くす、そうなります。その線で不自由とは何か?貧しさを忍び、不殺生の菜食をし、貞操を死守する、そうなってしまいます。その不自由さはカトリックとか昔の仏教とかの宗教を連想させますが、皆がその通り行動すれば人類は滅亡するという意味でも、そこまでの不自由は不自然で、自由か不自由かの二者択一なら、皆自由を選ぶのが自然です。しかし人間は老いたり病んだりしていつか死ぬという存在で、結局不自由は付きまとい、だからこそ人間を超える何かに触れたいという思いと、また現実的には、他人の物は奪いたいけど自分の物は奪われたくない等の思いが高まって、宗教や社会制度を生み出して、折り合いをつけようと試みて来たのかもしれません。あまりエラそうな事は言えませんけれども、不自由が先にあったのではなく、自由を願うゆえに不自由が生まれたんだと言って良いかと思います。 常識によるルールに沿って、不自由による自由を求める。結局それでやっていくしかないのかもしれません。しかし現在の平成という時代ではなく、現代に至るまでの歴史を見れば、遥か昔は病気を治すのは呪術師が常識で、人間扱いされない奴隷がいるのが常識で、近い昔は鎖国が常識、華族と平民の区別が常識で、つまり当たり前の常識によるルールは変化して来ている訳ですから、二十一世紀の常識も、単に当たり前として受け入れず、少し疑ったりして客観的に考えるのも必要なのかもしれません。個人的にはその事により、ボンヤリ過ごしたムダな時期を取り戻す事につなげたい気もしますし、またその辺にこだわっていく事で、自分がより良く生きるための方法を探り、変わっていけたらと思うのです。でもまあしかし、より良く生きるためなどのこの表現も、誰もが言いそうという意味で、当たり前な感じもしてしまうのですが。 |