2005.11 『バー ハイレ』終了いたしました。ご来場の皆様、関係者の皆様、ありがとうございました。

 書けずに苦悩するのは作家の宿命であり、またそれゆえに素晴らしい作品が生まれるのだという様な事をおっしゃる人がいますけれども、大作家、例えば宮沢賢治なんかは、トランクいっぱいに自分の作品を詰め込んでいて、ある人の家でそのトランクを開けた途端、原稿用紙があふれ出て散らばり、さらにその原稿用紙から、なんと文字があふれ出し、その文字たちが賢治に向かってペコリとお辞儀をしたという伝説の持ち主で、でもまあこれは明らかに、賢治ファンによる作り話でしょうが、その他の大作家、例えば世界の北野監督は、映画のアイデアノートを何冊も持ち歩いているらしいと聞くし、そのほかロシアの文豪チェーホフは、不治の病に冒されてから、金のための雑文執筆活動から足を洗い、人間探求の本格的な文学を志したそうでして、これらの事を考えますと、書きたいから書く、あるいは書かざるを得ないものがあって書くのが本来の作家の姿であって、ホントに書けないのならその人は、ズバリ書く事をやめるべきであります。

 今月僕は芝居をやっておりまして、実はその台本がなかなか書き上がらず苦悩した訳ですが、いま作家について述べました通り、ホントに書けないのなら僕もやめなきゃいけませんから、とりあえず、ホントは俺は書けるんだ、俺の書こうとしているものは多分、簡単には手の届かない、高い所にあるんだという、前向きな感じに仮定して、ウンウンうなりながらノートに向かい続けました。

 高い所に書くべきものがあるという考えは、言い換えればずっと上の方にある目線から見た、その風景を描きたいという願いな訳ですが、しかし願っても実際自分にそこまで飛ぶ力はない感じで、精一杯羽ばたいたとしても虫レベルの高さしか飛べず、俺は虫だなぁなどと思い始め、上を向いて天を仰げば、大作家の鳥たちが悠々と天高く飛翔している、そういった様なイメージが浮かび、あ、世界の北野だ黒澤だ小津だ。チェーホフ、賢治、坂口安吾だ。きっと虫には知り得ない風景を見ているんだろう、いいなぁとか思いつつ、また虫なりに精一杯飛び始め、そのうち疲れて力尽きて死んで、死骸になって地上に落ちたり、あるいは飛んでる途中に鳥に食われ、フンになって地上に落ちたりで、その時の僕の気持ちは、俺は死骸だ、俺はフンだという情けないもので、だけどそこでイジける訳にもいかず、またウンウンうなりを開始して、やがて死骸やフンが土へと還り、養分として虫の幼虫に摂取してもらい、成虫になり羽を広げて、再び上空を目指して飛んで行き、しかしまたもや力尽きたり食われたりという、その繰り返しの連続で、やはり虫には無理かと希望は薄れ、だけど高い所へとしつこく願って、そこへ近付く手段があるとすれば、ごくまれに吹く強い風にうまく乗り、高みへと数秒舞い上がるか、鳥の尾か足かなんかにしがみつき、振り落とされるまで数秒風景を垣間見るかのどちらかしかないと発見し、そしてその二つの手段をなんとか使って、やっとこさ台本を書き上げたという次第です。

 書く事の苦悩について全くの個人的な印象を述べました。虫だフンだと比喩し過ぎた所も無きにしもあらずで、またホントは書けないのではという不安をごまかした所も無きにしもあらずですが、しかしこれからも引き続き、ホントは書けるんだと思い込み、飛んだりフンになったりしようかと思います。