2006.5 |
僕が二十代の頃ある人に、「三十過ぎたら時が経つのが速くなって、あっという間に四十になっちゃう」と言われた事がありまして、若かりし僕は秘かに心の内で、「なんかジジくさい発言だぜ」と失礼ながら思ったのですが、実際自分が三十を過ぎての三年間を振り返りますと、そのジジくさい見解に同調せざるを得ない感じで、例えば中学時代の三年間と比較すれば、年数は等しいのに何でこんなに違うのかしらと驚く程で、数年前読んだ子供向けの科学の本、『絵ときタイムマシン入門』に書いてあった、生物は体の大きさが小さくなればなる程に、その鼓動のテンポが速くなり、そのテンポを基準に時間を感じるため、大きい生物と小さい生物では流れる時間が違うのだとかいう話に思い当たったのですが、でも確かそれは象さんとアリンコを引き合いに絵ときしたもので、人間の大人と子供がその話に適合するかは疑問であります。 やはり体の大小というよりも、大人になれば社会との関わりが増え、様々な都合に追われ毎日が過ぎ行き、そのため時間を速く感じるのだろうと思います。子供は小さい社会の中にいるし、また取るに足らない悩みでも純粋にタップリ悩んだりする様な印象ですが、大人は平気そうな顔をしてても、内心は色々な不安が同時進行していて、アレコレ忙しく思い苦しんでいる様な印象です。そういう意味では大人の方が落ち着きがないと言える訳で、僕の場合も迷ったり惑ったり乱れたり等の心の動きが、年を取るに連れ段々と活発になって来ている所があります。でも「悩める青年」は絵になりそうですが、オッサンのそれはどうもあれなので、これからは心をうまくコントロールし、世間で言う所の大人っぽさを装うべきかも知れません。 落ち着いた頼りがいのある年長者が「理想の大人」と呼ばれるのでしょうが、考えてみますとそういった年輩の方には余り会った覚えがない様に思え、逆にまだ若く人生経験も浅いのに、妙に落ち着いた雰囲気を持つ人は、結構いる様な気がします。僕自身を振り返っても、今よりも二十代前半の就職したてだった頃の方が、何故だかそういった雰囲気を持っていた様に思います。当時、ビルメンテナンス(ビルの清掃、設備など)業の会社にいまして、ある企業ビルの清掃業務を担当する、そのビル内の現場事務所に通っていました。現場の人々の構成は、社員が新人の僕と主任の二人、そしてパート勤務のいわゆる掃除のオバチャン達が二、三十人位、その他高校生のバイトが五人位で、パートのオバチャン達は高齢の方が多かったのですが、サボッて無駄話に花を咲かせたり、隠れてこっそりオヤツを食べたり等の、まるで小学生っぽい様な一面があり、また主任は子持ちに成ったばかりで、早く赤ん坊に会いたいのか、夕方になると帰宅したそうにソワソワし出すなど落ち着かない時があったのですが、僕はおそらくそんな子供っぽい面が少しもなく、バイトの高校生の目から見れば、一番大人っぽい人という風に、映っていたのではと思います。 僕のその不思議な落ち着きの理由を探れば、まず自分はまだ新人であるとの認識から、社会についての物事を学び取って吸収しようと、ある種のポジティブさを持って仕事に臨み、それを通じて新人という立場から、自分の居場所を見付けていた事と、そして責任者の重圧などはまだ背負ってなく、その代わりこれから将来一人前になって行くというイメージを、どこか気持ち良く背負っている様な所があって、それらが自分を落ち着かせ、安定させたんじゃないかと思います。 結局主任に昇進が間近になった、二十代半ば近くの頃に退社してしまったのですが、辞めたその訳の一つには、責任職という現実的な重さ、イメージではないリアルな重圧から逃がれようとした事が挙げられ、それはつまり新人ゆえの安定がグラついたという状態でした。そして辞めてからそれ以降、かつての安定は崩れてしまって取り戻せず、さらに自分の居場所を見失った感じで、就職の経験から少しは自分も大人になったつもりでいたのですが、何か行動を起こすたび、自らの無力、世間知らず、小心さを体感したり、新しく人と知り合うたびに、他人の冷たさに敏感になったり、そしてある程度理解したつもりでいた社会についても、物事がグチャグチャと入り混じった、矛盾でいっぱいの世界に見えたりと、かつてのポジティブさは臆病風みたいなのに吹かれ、どこかへ飛ばされ消失し、今度はドンヨリとしたネガティブさに、呑まれてしまった状態でした。 しかしこのネガティブな時期も、少々ねじくれ気味な部分があり、自分はダメだと感傷的にもの悲しくなり、下手をすればそんな哀愁に浸っちゃう事もたまにあって、やはり思い上がって高慢になるのもマズいですが、逆に世をすねてイジけたりするのも、偏った見方で目が曇るという点で、同じ様にマズい訳で、無力や小心が自分に含まれる一部だとしても、それが自分の全部、正体そのものではないだろうと思います。 もし仮に僕があの時退社せず、責任者という立場に置かれていたとしたら、現実的な重さに向かい合う事で、居場所を見付けようと試みたんだろうと思います。この"居場所探し"とは、自分が一生懸命になれる場所を探す事とも言えるのでしょうが、更にこの"一生懸命"について考察しますと、これを用いたフレーズは安易に使い回されておりますし、「気合いだ!」「ハッスル」などを連想して、どうしても押し付けがましさや、方向の偏った窮屈さを感じざるを得ない所があります。けれども変な例ですが、犯罪者は悪事に一生懸命、怠け者ならグウタラ術に一生懸命という様に、人は誰でもそういった場所を多かれ少なかれ探しているはずです。僕の場合は以前自分が感じたみたいに、社会は矛盾していて理解不能とか、人間みんな他人同士とかいう風に、まず突き放す感じの態度で臨み、窮屈から逃がれ柔かく取り組める体勢にして、一生懸命に何かをやろうと考えております。もっと言えば、世間に媚びない態度を構える事で、うまく関わったりちゃっかり媚びたりしようとしているのですが、実際どれ程有効かは疑問の、したたかだか何だか分からない様なやり口であります。 |