2006.6 |
現在次回公演に向けての稽古中でありまして、僕は演出をする立場ですから、演技をする役者の皆さんの前に立ち、「今の演技は〜」「今の台詞は〜」などと発言していて、時にはクールに「こうした方がいいんじゃない?」とか、時にはホットに「こういう風にやっちゃおう!」とか言っております。稽古する場所は区民集会所等の公共施設が多いのですが、以前稽古中にふと窓を見ると、外からランドセルしょった子供たちが覗いていて、その子らの目は「変な人たちがいるう。何やってんのお?」と語っていて、クール&ホットに演出していたつもりの僕は、その子らに見られ少しドギマギし、何だか自分が"演出家"という役の演技をしているのを見抜かれた様な、ちょっと恥ずかしい気持ちになった事がありました。 むろん演技をしているのは役者の方で、その演技を見てる僕の演技は演劇における演技ではなく……ちょっと文章が入り乱れて来たので稽古場エピソードからは離れます。僕が今述べようとしている事は、芝居をやっている人に限らず、誰でも普段演技をしているんじゃないかという事で、例えば家族と居る時の自分、職場に居る時の自分、友人と居る時の自分は少し違う訳でして、人は誰と一緒に居るかで、自らを演じ分けているんじゃないかという事です。"演じる"と言うと相手に合わせて意識的に装うという印象ですが、その反対に、ついそう演技してしまうという様な、無意識的にそう振る舞ってしまう時もあると思います。"演じる"ではなく"自分について表す"と言った方が良いのかも知れませんが、この見地から"気の合う友人"を言い換えますと、"自分を心地良く表せる相手"になるかと思います。 演劇の話に戻りますが、むかし大劇場で観た翻訳劇で、高名な役者が長台詞をちょっと噛んでしまって、型の決まった演技や流暢な台詞回しが一瞬崩れてしまったのを目撃した事がありまして、もちろんその位は劇の進行に何の支障もない訳ですが、僕の場合、「ああ長い台詞で喋り疲れちゃったのかなぁ」とか「噛んじゃって悔しいんだろうな」とか「この人あとで落ち込むのかな」とかつい思ってしまって、更に言えば小さい劇場だと舞台と距離が近いですから、役者が屈んだ時に膝からポキッと聞こえたりして「ああ本番前に屈伸運動し忘れたのかな」とか、ダンスを踊る役者の衣装の隙間からチラリと白い湿布が見えてしまって「苦手なダンスで痛めたのかな。イヤイヤ踊ってんだろうな」とか思ったりして、これらは僕がヒネくれてるのもあるでしょうが、こういった見方はさほど特殊という訳ではなく、前出の翻訳劇を観た帰り道、前を歩くオバサマ二人も噛んでた事を話題にオホホと笑っていらっしゃいましたし、やはり僕が変な見方をしているのではなくて、型の決まった上手な演技より、その裏側にある役者の状態の方が、信じられるからに他なりません。 実際に演劇を創作していくうえで、「わざと台詞噛んでもいいんじゃない?」とか「ちょっと見えるように湿布貼っちゃおう!」とかの作り方はもちろんあり得ませんけれども、上手にカッコよく決まった演技はどこか、その演技力の高さをイバッて見せ付けられてる気分にもなるし、やはり何だか信じられません。もちろん型にハマッた表現の良さもあるのでしょうが、その方向だと僕の知識不足等で行き詰まりそうという事情もあるし、それとは違った方向で、掘り下げてみたいと思います。 芝居で演技する際は、まず台詞を覚え、役のキャラクターをつかみ、気持ちの流れを理解するというやり方が、芝居をしている気分になるには有効だろうと思います。でもそれだと結局自分の役についての解釈を、終始説明している様なものだし、キャラクターを作って安心して芝居したいという意味で、言ってしまえば、芝居ごっこであるかも知れません。ですので、キャラクター等はこの際捨ててしまって、前述の、人は誰でも普段演技しているという見地から、考えるべきかと思います。 もちろん相手によってコロコロ全くの別人になれば多重人格者になってしまいますし、キャラクターや性格や気質とかで、人はまず判断されます。しかし自分が予想外の状況に置かれた時、例えば失恋、災難、逮捕等の目にもし遭った場合、いつもより弱虫な自分が内側から現れる人が多いでしょうし、別に特殊な事態に遭わなくとも、例えばむかし親しかった友達に久々に会ったりすると、その頃の空気をお互いに感じ、現在とは少し違った、かつての自分の顔になったり、またカラオケ好きな人によく見られる様に、人前に立って歌うその人は、いつもに見られない表情をする、もう1人のその人になってたりするし、僕の場合も演出をするため人前に立つという機会を通じ、今までにはなかった別の自分、自分でも意外な気質を発見したりしてまして、この感覚こそが芝居での演技において、大切なのではと思うのです。重ねて言えば、役柄の人物像をハッキリと太い線で描くのではなく、色んな面、色んな顔を合わせていって、人物をボンヤリ浮かばせる方が、芝居というウソの世界での、ホントがやれそうな気がします。 けれどもここで考えるべきは、芝居には台本がありますから、台詞通りに喋るというルールがありまして、台詞で会話せねばならないという事です。ですからどうしてもその台詞の内容を理解し、言う動機を把握しようとの姿勢で台本に取り組みがちになってしまうのですが、それもまた台詞の解釈を終始説明する様な事になってしまいます。普段について考えれば、誰も台詞が元々あって喋ってる訳じゃありませんし、相手の目線とか表情とか動作とか、声や呼吸の感じとか、距離とか向き合ってる角度とかを、体で感知しているはずで、言葉ではない会話もしているだろうし、もっと言えば、その人の持っている"空気"も感じているはずです。 その"空気"には、前述した噛んじゃった役者に僕が見たという、"裏側にある状態"も含まれていて、人は相手を正面から見ていても、同時に背後も見ているんだと言えるんじゃないかと思います。よくは知りませんが対人恐怖症というのは、自分の背後を覗かれそうな、裏側を見抜かれそうな恐さによって、他人の目線や空気に怯えて起こるのではと考えてまして、程度の差はあれどんな人でもそれと似た恐怖は持っている様に思います。けれどもそんな恐れを抱えつつも、やはり人は誰かと関わって、自分を表したい存在でもあるはずです。そして自分に対し、裏側とか背後も含めて、優しく見ようとしてくれる人の、その目線、その空気に、焦がれているのかも知れません。会話にはそういった、言葉ではないものが大きく関わっているんだと思います。 以上、演技について考察致しました。正直に言いますと、自分が演出をするに向けて考えをまとめるために書き連ねたという次第でして、もしかしたら以前読んだ本の引用になっちゃってる部分とかがあるやも知れません。とにかく書き終えるまで長い時間を費やしました。僕の今の状態はヘロヘロであります。
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