2006.7 『ナマジッカ―ズ』終了いたしました。ご来場の皆様ありがとうございました。 |
公演の本番中の期間は僕の場合、何となく世間とは距離を置きたい気分になって、ニュースを見たり新聞を読んだりする気にならず、その期間中の世の中の出来事からはいつも疎くなってしまいます。今回も全くそうだったのですが、本番を終え、改めて世の中を見てみますと、わずか少し前よりもより一層、混沌として穏やかでなく、何やらモヤモヤしているという、そんな印象を受けました。
もちろんこれは世の中に対する見方にもよるし、僕の今の状態によるものかも知れません。つまり僕がモヤモヤしてるという事であり、更に言えばこのモヤモヤは、自分が一体どういう風に生きていけばいいか分からないという事に起因しております。何だか思わず重たげな文章になってしまって、自分でも書いててビックリしたのですが、別にいま特に落ち込んだりしてる訳でもありませんので、重たげでも、なるべく軽快なタッチの筆致で、書き進めていこうと思います。 今公演についての話ですが、稽古期間に入る前、演出するに向けての準備という事で、何冊か演劇に関する本を読んで自分なりに考えをまとめ、実際の稽古に臨みまして、特に演技面に関しては、あるキャラクターを装ったりなどの、短絡的、説明的と感じられる演技をしないよう言い続け、芝居が作為的過ぎる、言い回しでごまかすな、小道具に頼るな等々、口やかましく(もちろん優しい口調です)、けれども稽古途中から、自分は何を根拠に演出をしているのか正直だんだん見失ってきて、更に僕も役者で出演していましたから、どんな風に演技をし、そこに立てばいいのか分からないという様な不安を覚え、うーん…分からない、不安だ、まずいぞという具合で、答えを探すように以前読んだ本をまた読み返し、しかし更に混乱したりし、結局唯一これだと思ったのは、何かの本に書いてあった、“演劇を作る事は一筋縄じゃいかない”という一言で、つまり答えは何かと求めたら、ハッキリした答えなんかありませんと、突き放されたという次第です。 自分で書いた台本ですが、どう演出すべきか分からないという、まるで自分の描いた地図上で、迷子になってしまったみたいな、方向オンチだか何なんだかという状態で、しかもこの迷子には、頼れるお母さんとかお巡りさんとかは不在で、びいびい泣きわめいてみたところで、すがれるものは何も無く、とりあえず、自分はいま迷子なんだ、ああ、そうです、分かりません、子供みたいに迷ってますと、開き直りつつ自覚して、何とか進もうと試みました。 それまで演出上、単純な演技はダメとさんざん言ってきたのですが、それとは別に、自分は迷える子供ですから、ここは一つ今回の芝居について、子供っぽくシンプルに考えてみようと思いました。自分は一体何をやろうとしているのか?それは、これまでより良い芝居、より良く豊かな芝居を作ろうとしている、と考え、そのためにまず、そう進むための目印、標識でも看板でも見付けようという、前向きな迷子として臨むべきと判断しました。ちょっと迷子で比喩し過ぎましたがつまるところ、稽古をこれまで以上にしっかり見て、気付くしかないと思ったのです。 そうやって稽古をジロジロと、ややギラギラと見ていくうちに、いま何か気付けたかと思える瞬間もあるにしろ、やはり分からなさは解消できず、そのうちに、何だかこの分からなさは、自分の生きる不安、自分がどういう風に生きていくべきか分からない不安に似ているんじゃないかと思い始めました。更に個人的な印象を重ねて言うと、より良く豊かな芝居を作るという事を、少し大人っぽく言い換えれば、演劇の純粋な領域というか、核心みたいなのに迫るという事であり、それになかなか触れられない、このままならない苦しさは、ここ数年のままならない自分、例えば恥ずかしながら、自分がいいなぁと思った異性(子供っぽく表現しました)の人たちに、ことごとく振り向いてもらえないという様な、そういった事に似ている気もし始めました。この、分からない、振り向いてもらえない、という不安や苦しさが、演劇にだんだん重なってきたのです。 そして同時に思い知らされざるを得なかったのは、これまでの自分は、演劇について分かったような顔をしていた所があったのでは、場面場面を雰囲気で仕立てようとしていた所があったのでは、という甘さについてで、“演劇”に僕は、アンタ甘いわ、雰囲気じゃなく実質が肝要よと、上から目線で言われてしまった様に感じました。けれども、僕はそう言われてしまって、その甘さを自覚しつつも、ちょっと悔しくムッとしたのです。 ムッとした僕は、優等生っぽい言い方をすれば、演劇に懸命に取り組む、不良っぽく言えば演劇とケンカする、そういったつもりでそれから稽古に臨みました。そして演技について気付けた事は、また台本を地図に例えて述べますと、地図上の線や記号をクッキリ描かず、地表の線や建物の記号に示されたもの、〒なら郵便局を、×なら交番を、地表の線ならその高低差を、イメージする事が大切で、地図はそもそも町並み等を平面図で表したものに過ぎませんから、線や記号自体に思いを入れず、その背後にあるものに思いを入れる事が大切なのではという様な事でした。 今回の公演で“演劇”に、上から目線とかではなく、ちゃんと振り向いてもらえたのかは分かりません。チラ見位はしてくれたんでしょうか。これからどうすべきかを考えた時、やはり演劇に取り組むではイマイチ弱く、またケンカするでは、ライブはケンカだとおっしゃる、グラサンで弾き語る最近金髪筋肉の方を連想したりし、ちょっとオトコくさ過ぎるので、“格闘する”が良いのでしょうか。そしてそれを生きるという事に当てはめてみますと、分からなくとも、より良く豊かに生きるため、格闘するという事になります。モヤモヤはますます膨らみつつも、今回は、何かに頼ったりすがったりしてはいけないというのが、一番の発見だったかも知れません。 |