2006.8 |
お酒のうちで僕が一番飲むのはビールでありまして、八月の炎暑のなかキンと冷えた缶ビールなんかで、喉をうるおすのも格別ですが、しかしそれは1本目、2本目位までの話で、何本も飲み続ければもう季節なんかは関係なく、空缶ゴミを増やしながら、ぐるぐる酔いを回し続ける、ビール好きのただの酒飲みであり、この間そうやって自宅で酩酊し、更に買って飲もうと酒屋へ向かうと、店近くの道端にいた初老のジャージ姿の男性が、手に持つワンカップをやや揺らしながら開けて、まるでスポーツ選手がスポーツドリンクを飲むかの様に、勢いよくアルコールを摂取しているのを目撃し、ありゃあ…と思いつつ買物して帰宅して、僕もまたアルコールを摂取し始めたのですが、何だか気分が少し沈みだし、最近の自分の痛飲の日々に反省の念も感じだし、酒に依存とまではいかなくても、下手をすれば酒に頼ろうすがろう甘えようという様な、近頃の自分の傾向に気付き、これではいけない、よしこれから酒は控えめにしようと強く思い、けれども止まらず大いに飲んで、酒に頼るまいと考えながらまた痛飲し、そのまま酔い潰れて寝てしまいまして、全く考えと行為のつじつまが、合っていなかったという次第であります。 先日も、飲み過ぎまいと思う程に量が増えるという矛盾の中で酔い、その時テレビでたまたまやってたニュース番組を見ていたのですが、その番組は海外で頻発するテロについての報道をしていて、テロ行為に走る若者の動機は、必ずしも恨みや貧困が全部ではなく、ここ数年の国際情勢の変化によって、地域社会等における共同体意識が崩れ始め、自分の拠り所を見失った若者が増え、そのうち「過激派」と呼ばれる団体にまるで頼ってすがるかの様に所属して、そういった行為に走った者も少なからずいると報道していて、番組の最後にコメンテーターの教授の方が、この様に自分についての喪失感から、何かに甘えるかの様に行動してしまう傾向は、海外に限らず日本においても当てはまるとおっしゃっていたのですが、それが真実を突いているのか僕にはよく分かりませんけれども、酔った頭に“甘え”という言葉が引っ掛かり、それは何かに甘える生き方は危険との教授の意見に共感しつつも、僕は近頃酒に甘えがちではという、自覚のためだろうと思われます。ですので今回は酔った頭をまず醒まし、“甘え”について考えてみたいと思います。 甘えでまず思い浮かんだのは、幼児と母親によるベタベタや、恋人同士によるベタベタで、そしてそれらの中でも人前で遠慮なくベタベタしているケース、例えば平日昼間の飲食店なんかで見られる、ギャーギャーかまびすしいボクちゃんとそのママや、また、終電近くの電車なんかで見られる、座席スペースを余計にぶんどり、互いにもたれかかってチュッチュッとイチャつくカップル等の、他人を気にしない甘えっぷりは、見てて気分良いものではないというか、ハッキリ言って迷惑だし腹が立ちますが、しかし、それは甘え合うならプライベートな場所でやれよという様な、それらの“甘え”に対してよりも、周囲への無遠慮さに対する腹立たしさであり、この事を僕とお酒に置き換えて考えてみれば、酔って他人にからまなければ一人でいくら酔おうと自由といった、そういう意味合いの事となりますので、甘えそれ自体とはこれらのケースは無関係とも言えます。早くも“甘え”の考察が行き詰まりそうな感じですので、ここはちょっと観点を変え、甘えそれ自体、つまり甘える心理のしくみという点から、考察し直そうかと思います。 さっそく図書館へ行き心理・精神系の本など借りてみました。専門書は当たり前ですが専門用語が多く、よく分からないまま通読してしまったりしたのですが、一つ印象に残ったのは、精神科のある患者の話で、その患者は元会社員の男性で、非常に自分に厳しく仕事にしろ何にしろ、とことんやらないと気が済まないタイプの人で、その程度がだんだん甚だしくなり、いくらやってもそういう気持ちが解消出来ないという、強迫観念みたいなのにとらわれてしまった人の話がありまして、この症例の分析を述べますと、自分に厳しく他人に依存したがらないこの人は、裏を返せば甘えたい欲求を内心に深く持っていて、ホントは誰かに頼りたいのにそういう対象を持っておらず、逆に自分の甘え心理を強く否定せざるを得ず、孤立して屈折した状態に陥ってしまったとの事でした。ですのでこのケースから考察すれば、健全な社会生活を送るには、甘えは必要と言えるのかも知れず、更に言えば、甘えたり甘えられたりする事は、人間関係において大切であるのかも知れません。 他人や集団に全く依存せず所属せずでは、うまく暮らせないとの見地に立てば、誰しも依頼心等を持つ事は自然な事で、例えば前出の、甘えは危険と意見した教授の方も、甘えを全否定までは出来ないはずだし、また僕について述べますと、先月のこのエッセイで、「何かに頼ったりすがったりするのはマズい」みたいな事を書きましたが、実はその「頼らず、すがらず」という考え方に、頼ろうとする所もなきにしもあらずで、結局人は“甘え”から、逃れられないんじゃないかと思います。 健康な精神を保ち上手に生活していくためには、合理的に甘えたり甘えられたりするべきなのかも知れません。けれども問題は、対象があればこその甘えであって、対象はもちろん自分以外の何かですから、その相手次第の所は大きく、必ずしも自分に都合良くはいかないというのも、当然の事として考えられます。甘えるとは、自分自身を対象に向かって、まるで放り出すかの様な部分もありますし、ここで再びベタベタ親子やベタベタカップルを引き合いに出しますと、子供が成長し物心つけばママをうっとおしく思うかも知れず、またカップルなら、彼氏の一つ一つの仕草を嫌に感じる程に彼女の気持ちが離れるかも知れずで、そうやって関係が変化した際、甘えられなくなった人は、相手に自分を放り出していた分だけ、自分を見失い喪失感に襲われる事態が予想され、精神は不健康になり下手をすれば、この不健康がその人を何か非常識な行動へと突き動かす可能性もなくはなく、そう考えるとやはり甘えは危険であります。更に言うと、“甘え”の中に含まれる“自分を放り出す”という要素が、この危険を引き起こすのだろうと思われます。 最近の僕はもしかしたら、甘える対象を酒にしようしてたと言えなくもありません。しかし考察した様に、“甘え”は必要でもあるという意味で、飲むのは僕にとって良い事でもあります。また、“甘え”は人間関係において大切で、それがあればこそ社会は健全さを保つという視点で、世の中を改めて見てみれば、世間は“甘え”に満ちていると見えます。しかしそこには甘えによる安心感と裏腹な、危険なものも潜んでいる訳で、“甘え”にはそういうニ面性みたいなのがあり、つじつまが合っていないという風にも言えます。 酒を控えようと思いつつ痛飲するという僕の矛盾も、そのつじつまの合わなさに関連している様な気もします。だけどホントに死ぬ程飲んだら、きっとホントに死ぬでしょう。ですから、アルコールに漬かりトロケちゃう様な飲み方は、やはり危険な行為であります。その危なさを考えて飲めば、たぶん不美味いお酒になりそうですので、そうやって控えめにしていくというのも、一つの手なのかも知れません。 |