2006.10 |
十月は年度がちょうど半期過ぎた月に当たって、その区切りの良さにより、企業の社員採用数が比較的多めというのを、むかし求人誌で読んだ様な気がしますが、僕も二十代半ばの頃の十月に、ある会社に就職いたしまして(二度目の就職でしたが)、その職務内容は求人広告代理店の営業職で、志望動機として履歴書に、「様々な職業の方々と触れ合い、自分の視野を広めたい」などと書きましたが、実際はスーツを着る仕事がしたかったからで、これは当時の月9ドラマのオフィスものとかに影響された所も認めざるを得ず、その時僕は最初に勤めてた会社を辞めて以来、アウトソーシング系ボディワークスタッフ、横文字無しで言い換えれば、単純肉体労働を色んな現場に派遣されてやるといった生活で、登録していた派遣会社の実体とはつまるところ、手配師のようなものであり、そのスタッフである僕の実体はつまるところ、日雇い労働者のようなものであって、そういった生活とは反対のイメージ、作業服ではなくスーツを着こなし、泥くささ汗くささではなく香水のいい匂いもする様な職場で、「仕事に恋に」というイメージを描き、スーツ着用を条件に求人雑誌を読み漁って、やりたい仕事がハッキリしない自分にふさわしいのではという点で、求人広告関係の仕事を選択し、また自分がすごく苦手そうな営業を敢えてやってみる事で、きっと自分が成長出来るんじゃないかという、これまたオフィスもののドラマにありそうな言い方ですが、とにかく自分を変えたいという気持ちで、不安ながらも張り切って、新しい職場に向かったのでした。 働き始めてすぐに気付いたのは、ドラマと現実は全然違うという事で、スーツも次第に窮屈に感じだし、泥くささ汗くささはない代わりに、契約、契約、と僕らに圧力をかけてくる上司と、契約を取るという事に従属する存在の様な僕ら部下たちの、それぞれの気配みたいなのが交わって、無臭だけど神経にこたえそうな空気が職場に充満し、「仕事に恋に」という考えなんか、笑止千万な感じであって、結局僕は長く続かず、逃げる様にそこを辞めたのでした。 もちろん世間知らずだった僕の個人的な印象で、まだ職場を一面的にしか見ないまま辞めてしまったとも言えまして、現実が厳しいのは当たり前なのかも知れませんが、今回述べたいと思うのは、そういう現実の厳しさについてではなく、職場とか、あるいは教室、集会場とかの、人が集まる“場”に関してで、というのは僕自身、退職は仕事が嫌になったとの理由だけじゃなく、まず職場から逃れたい、つまりその“場”から逃れたかった所があるからで、“場”というものが持っている性質について、ここで考えてみたいと思います。 まず“場”には、独特のルールみたいなのが出来るのではと考えられ、例えば僕のいた職場も朝礼において、やたら大声で本日の目標を言わされたりしましたが、その他うわさ話で聞いたひどい例を挙げれば、ある会社では朝礼で、営業マンにチョンマゲのヅラをかぶらせ、「自分を捨てて無になろう!」などと叫ばせて、恥ずかしさをマヒさせたりして、契約に仕える奴隷としての志気を高める様な事をやっていたらしく、これはちょっと異常じゃないかともちろん思う訳ですが、もし仮に自分がその場に居合わせたと考えてみて、更に仕事に前向きに取り組もうとしていると考えてみたとしたら、そのチョンマゲの異常さに気付けないというか、気付いたとしてもその場のルールに反する事は出来ない、するべきではないという配慮が働くだろうし、その場にいる限り、そのチョンマゲルールに従うしかないといった状況に、陥ってしまうだろうと思います。 僕の話に戻りますが、会社での実際の仕事内容を言いますと(会社をG社の求人広告代理店として説明します)、まずR社の求人誌に広告を載せている会社や店に、しらみつぶしに電話を掛け、G社の求人誌にも載せませんかと口説き、アポが取れたら会いに行き、契約に持っていくという流れでしたが、僕はまず電話での口説きでつまづいてしまってて、受話器の向こうの他人を相手に、G社のメリットを並べ立てたり、R社をけなしたりしながらも、そう言っている僕自身、G社の方がR社よりすぐれているとは別に思っていない訳で、何を根拠に喋ってるのか我ながらよく分からなく、しかし仕事だからとふんばりつつも、この職場に来た元々の動機、成長したいとか自分を変えたいとかいったものから、ふんばればふんばる程に離れていく気がし始めて、そのうち仕事の出来ない新人という風に職場内で見られだし、上司から、新人だから何も分からずバカでスイマセン、みたいなキャラで営業しろとアドバイスというか命令されて、僕もなるべくそういうキャラで仕事に臨み、職場内でもそういうキャラを作って過ごそうと励んで、結局すぐに限界が来て、そこから逃げ去ったという次第なのですが、この事を、“場”を軸にして考察すれば、まず僕の個人的な動機など“場”にとっては関係なく、個人的な事情なんかより、“場”にどう対応してくるかが重要で、こいつは新人の若者、そして仕事の出来ない奴と“場”にいったん判断されてしまうと、その判断をいち早く感知した上司が、僕にダメキャラを命じる事で、“場”にうまく組み込ませようとしていたという解釈が成り立ち、ちょっと荒っぽい言い方をすれば、“場”は“個人”をぶっ潰す何かを持っているんじゃないか、一人ではたちうち出来ない、特有の力みたいなのが、“場”には作用するんじゃないかと考えられます。 話は少しずれますが、学校の教室において、いじめの問題がありますけれども、その原因としてコミュニケーションの不足とか、人間関係の薄さとか言われがちですが、原因はきっとそんな単純明解な事ではなく、例えば動物の群れには上下関係が自然に発生するのと同じ様に、人間関係を濃くすれば、他人同士で衝突が起き、いじめみたいなのが自然と発生するのかも知れず、そして教室という“場”には前述した、そこに特有のルールと力も、多かれ少なかれ作用しているのだと思われ、簡単に解決出来ない問題になっているのではと思います。 更に話をぐんと飛躍させますが、国と国との、国際レベルの会談においても、各国のそれぞれの都合や事情、つまり国益が衝突しますが、国際社会という“場”、もっと言えば地球という“場”が、ある国の国益を潰しにかかるケースもある訳で、いくら自分達が繁栄と平和を望んでも、よそからの不況や戦争に組み込まれてしまうかも知れず、職場や教室にはその“場”を去るという選択も最後に可能ですが、地球上にいる以上、地球という“場”を去る事は不可能で、誰しも部外者になれないといった意味で、ちょっと不安な、恐ろしい様な気がしないでもありません。 もちろんいじめ、不況、戦争は無くすべきものと思いますし、そして“場”に関しても、逆に個人がその場特有の力を借り、実力以上のものを発揮するケースも少なからずある様な気もします。けれども、“場”が持っている、個人をあらがえなくさせる性質は、人間関係や社会を見るうえで、無視出来ない点だろうと思われます。 僕の就職体験談をもとに、“場”について考察いたしました。しかし正直なところその会社は、実は三週間位で辞めていまして、地球レベルで述べたりなんかしましたけれども、それっぽっちの体験談で話を膨らませすぎた様な気もいたします。そんな疑問も感じつつ、この個人的な文章を、書き終えさせて頂きます。 |