2006.11 呂均与目治プロデュース公演終了いたしました。
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 この『DA・BUN〜駄文につき〜』というエッセイらしきものは、HPを開設した2004年11月から始めまして、以来まる二年間、毎月コツコツと文章を書いて掲載しており、その継続力を我ながら誉めてあげたい気持ちになりつつ、二年前のバージンエッセーから改めて読み返してみたりしました。

 もちろん僕の継続力については、いま流行りのブログ等で毎日更新してる様な方に比べれば、月に一度だし全く大した事ありませんけれども、それはさておきまして、過去の文章を読みながらふと思い出したのは、アメリカの著名なホラー作家がインタビューか何かで、“文章”について語っていた事で、その作家いわく「文章とは、血の滲んだ一語一語の積み重ねである」という、ホラー作家らしく定義の仕方がbloodyな感じで、つまり血を流す位に呻吟しつつ言葉を組み立てるべきという事でしょうが、その他日本の昭和の頃の、反骨気質な或る文豪は、「己の命と引き換えても構わない程の、書かざるを得ないものを書くのだ」と語ってまして、これらをせっかくなので強引に、そのままこの『DA・BUN』に当てはめますと、この二年間僕は月に一度、血に染まって命を削って、文章と戦い続けてきたと言えます。

 その戦いの軌跡を振り返ってみて感じたのは、血を浴びた気になってるだけじゃないかとか、命を削ってるんじゃなく撫でてるんじゃないかとかでして、ちょっと比喩が面倒になってきたのでやめさせて頂きますが、要するに、読み返してみてところどころ、気恥ずかしく思う様な所があったという事でして、しかしこれは自分自身の変化とも考えられ、文章を見る目が高まった、文章表現力が上達したとも考えられるのでは…、いやいや、それはどうなんだろう?といった期待と疑問が生まれまして、しかしこの期待と疑問もさておきまして、それらとは別に、自分の文章を読みながら感じてしまった事があり、それは“文章”自体の持つ、弱点とも言える様な、“文章”のある一面についてであります。

 「エッセイ」を辞書で引いてみますと、「体験感想意見等を、自由な気持ちで綴った文章」と載っています。ですので「エッセイを書く」とは、「現実世界についての所感を、言葉を組み立て展開させて、まとめながら述べていく」と言えますが、僕の場合はその過程で、“文章”が思う様に動いていかず悩んだり、あるいはその反対に、“文章”が勝手に動いて思わぬ展開をし出したりという、言葉の世界みたいなのに翻弄される様な時があって、しかし最後まで書き上げるには、その言語的ワールドに、振り回されまいとしながらも、うまく回路をつなげ連絡を取り、そこで見つけたり選んだりした言葉で、現実世界に斬り込むといった方法で、何とか書き上げて筆を置く訳ですが、書き上げて一息つくホッとタイムには、まるで自分が現実世界を言い当てたかの様な、達成感を少なからず味わったりもします。ですが僕が今回改めて、そんな達成感など忘れた状態で、自分の書いたものを読み返し感じたのは、“文章”から現実世界がスルスルすり抜けていく様な、“文章”の意味内容という枠から現実世界がはみ出す様な、そういった印象でした。

 以前読んだ本で、また日本の昭和の頃ですが、食通でも知られる或る文豪が、「マグロの刺身とハマチの刺身の味の違いを、いくら言葉を尽くして説明しようと、実際食べてみる理解には到底及ばない」と語っていたのですが、前述した“文章”から現実世界がはみ出していく感覚は、これに通じる部分があるのかも知れず、言い尽くせない所のものが現実世界には存在している、更に言えば、言葉で解読された現実世界と本当の現実世界にはズレが生じる、もっと言えば、論理的に世界を解読していくにつれ、ズレてしまうものが生じざるを得ない、つまり、世界について考えれば、世界を見る目は曇らざるを得ないと、言えるのではと思います。なのでエッセイ等の文章を書く際、言葉と現実世界にはズレが生じる、世界を見る目は曇るという、これらについてまず自覚しないと、くどくど一人よがりに話し散らす、いわゆる「世迷い言」を書く事になってしまうのかも知れません。

 いまブームのブログに関して意地悪な見方をすれば、世迷い言の氾濫といった面がある気がしまして、またこのブームの理由の一つには、先月のこの『DA・BUN』で述べた様な、自分の社会生活における“場”に、自分という個人が潰されそうになり、それに対し抵抗や復讐を試みようとの動機があるのかも知れません。もちろんブログには良い面もあるのでしょうが、例えば顔や本名を隠して一方的に書いているケースの文章を見ると、少し気味が悪くも感じたりします。

 ブログではなく手紙ですが、無記名の一方的な文章で最近強く印象に残ったのは、文部科学省に送りつけられた、いじめを受ける生徒からの自殺予告の文章です。イタズラとの見方もある様ですが、生徒からのホントの手紙だと仮定して、更に僕の想像もふんだんに加え、この生徒についてここで少し考えてみたいと思います。

 教室という場で、キモイクサイといじめられるこの生徒は、親や先生に相談しても面倒くさがられてしまい、何も状況が変わらないので、当て付けに死んでやろうかと思い付き、しかし死ぬつもりなら何だって出来るんじゃないかとも考え、自分を見下す奴らに復讐しようと知恵を絞り、まず身近なクラスメイトや親や先生等に向け手紙を書き、そして校長、その上に君臨する教育委員会、更にその上に君臨する文部科学省にも手紙を書いて、このいじめを告げ口し、自殺で脅してやるのはどうだろうと、ドキドキしながら書き始め、立派な文章で驚かせなきゃいけないと、辞書を引いたり、文法の間違いに気を付けたりしながら書き続け、特に「いじめと自殺は因果関係がある証明書」を作成したうえでの、「証明書どうりに自殺します」というフレーズは、正しく死ぬ自分の勇気を、冷静に言い表せたみたいで気に入って、「僕の名前は自殺のニュースでみんなに知らせてください」と、マスコミを意識させて婉曲に脅す感じで締めくくり、筆を置いて達成感に満ちながら、普段よりクレバーでストロングな自分にウットリしつつ、手紙をまとめ、宛名は文科省にして、ポストへ投函した訳ですが、しかし彼はどちらかと言えば、世間は自分にいつも冷たいし、この手紙も相手にされない事を予想していて、まさか大きく報道されたり、文科省が間抜けに慌てた様子で、「ぜひ、生きてほしい」とメッセージをくれるとは思ってなく、なぜあの大人達はメッセージなんかよりも前に、無記名の手紙という迷惑行為について、怒って叱らないのかも不思議であって、そして逆に差出人を調査していると聞いて、自分の事がバレるんじゃないかとビクビクし出し、そして後悔の念を持ち始めると共に、彼がそこで気付いたのは、地球より重いなどと言われる命を悪用しつつ、上の者に告げ口をした自分のやり方の卑怯さで、そういう奴だからいじめられるんだと言われる様な事をしてしまったという、自分への嫌悪感につながって、いま彼は以前よりも、更に苦しみ悩んでいるに違いありません。そしてこれは結果的に、自分の思いを一人よがりにぶちまけて書いた文章を、ずるい無記名で発表するという、“文章”への不作法を働いた事で、“文章”から彼は罰を与えられたと言えなくもないと思われます。

 今回の『DA・BUN』も前述したみたいに、思わぬ展開を文章がいたしまして、時事問題にも触れたりしてしまいました。来月からも引き続き、目を色んな風に曇らせて、言葉を一語ずつ積み重ね、組み立てたいと思います。