2016 2 会うは別れの

僕の住むアパートは木造2階建てで、各階2戸の小さなアパートです。その2階の部屋へ約4年前に単身で引っ越しました。管理する不動産会社から、隣の部屋は女性の一人暮らしと聞いていましたが、30代位の男女が二人で住んでいるようでした。帰宅時等に会えば軽く挨拶する程度の関わりで、二人が同棲中のカップルか、夫婦なのか、もしかしたら兄妹なのか、その辺の事情は分かりません。しかしある日に部屋の前で、買い物帰りの女性と会った時、明らかにお腹が膨らんでいました。それからしばらく経ち、無事に出産したのでしょう、会うと赤ん坊を連れていました。けれどもその時期から、男性の姿を全く見なくなりました。何故いなくなったのか、その辺の事情も分かりませんが、男性と入れ替わるように、隣に新たに住み始めたのは、女性の母親らしきおばさんです。母娘は関西の方言で会話していたので、おそらく子育てを手伝うために、はるばる東京まで来たのでしょう。


そのおばさんに、初めて会ったのは夏の日で、おばさんは外廊下に丸椅子を出して座って、煙草を吸っていました。帰って来た僕を見ると当たり前のように、「お帰りなさい。今日も暑かったわね」と話し掛けて来ました。その後もよく帰宅時に、(室内禁煙だったのでしょう)煙草を吸ってるおばさんに会いました。そのうち世間話程度を交わすようになり、例えばすぐ近所で建築工事があり、その騒音がうるさかったりすると、二人で文句を言い合ったりもしました。世間話以上の、お互いに立ち入るような話はしませんでしたが。


今月初めの休みの日、午前中ずっと隣から物音が聞こえていました。業者らしき男性の、何か重い物を運ぶ時のような掛け声も聞こえたので、家電か何かを新しく買って、その取り付け工事でもしているのだろうと思っていました。昼過ぎに買い物へ行こうと部屋を出て、隣をふと見ると、いつも置いてあった洗濯機、掃除道具、そしておばさんの丸椅子など、今まであった物が全くありません。一階へ降りると、女性が乗っていたチャイルドシート付きの自転車もありません。窓を見上げると中はガランとしています。隣の人たちは突然引越をして、いなくなってしまったようです。


その夜何だか僕の部屋の、静けさが増したような気がしました。隣の部屋には昨日まで、3人の小さい家族が住んでいて、全く意識していませんでしたが、壁の向こうにその家族の気配を感じながら、僕は今まで生活していたのかも知れません。「お帰りなさい」とおばさんに、言ってもらえることはもうありませんが、理由があって引っ越したのだろうし、仕方ありません。会うは別れのはじめです。お別れに、「お元気で」と一言いえなかったことが、少しだけ残念です。


地下鉄のホームへ
階段を降りてたら若い二人が
柱のかげでキスするところ
女の顔がこっち向きだったものだから
ぼくとばっちり
眼があってしまった
女は顔を離してぼくを
びっくりした目付きで見つめ
ぼくはべつだんびっくりしないで女を見つめ
このときぼくたちは知りあったってことになるのだろうか
微醺を帯びてたぼくは頷いて手を振り
女もちいさく
(男の頭のまうしろで)
手を振った
さようなら
会うは別れのはじめって
こういうことだね
ぼくはこれから
地下鉄へ
きみは男の唇へ
それから未知の
それぞれの人生の
果てへ

(辻征夫「地下鉄」)