2015 10 未明

6月に出演した芝居を終えてから数か月、特にこれといった用事もなく、夕方仕事を上がれば真っすぐ帰宅して、簡単な料理をしてそれを食べ、入浴し、テレビかDVD鑑賞、読書等をしながら酒を飲み、眠くなったら寝るという、地味な生活を続けていました。僕はそういう過ごし方が全く嫌いじゃないですが、他人から見ればきっと無味乾燥な生活に見えるでしょう。面白味のある要素は何も無い訳ですから、フェイスブックやツイッター等をやっていなくて、本当に良かったと思います。


僕は朝いつも6時半に家を出るので、夜12時位に就寝し、6時には起床していました。ある夏の日、暑さ負けしてバテ気味で、いつもより少し早く寝ました。すると明朝その分だけ、少し早く目が覚めました。そのパターンを何度か繰り返すうち、起床時間が少しずつ少しずつ繰り上がり、最終的に、夜10時就寝4時起床という、極端な朝型になりました。朝たっぷりと時間があるので、トマト・ソースにストラスブルグ・ソーセージを入れて煮込み、キャベツとピーマンを細かく刻んでサラダを作り、フランスパンに軽く水をふってクッキング・フォイルにくるんでオーヴン・トースターで焼いて、朝食を作りました、というのは嘘で、食パンをトースターで焼いてイチゴジャムを塗って食べただけです。今ついた嘘の朝食は、村上春樹『ハードボイルド・ワンダーランド』に出て来た料理で、ストラスブルグ・ソーセージは、食べたことも見たこともありません。


夜明け前の暗い時間って好きよ。清潔で使いみちがないからね、きっと。


これも、その小説に出て来た台詞です。僕の住むアパートは静かな住宅街のなかにあるので、この夜明け前の時間は本当にとても静かです。しん、としていて物音一つ聞こえません。先日、そんな静寂のなかにいると、早く一日が始まってほしいような、このままずっと始まってほしくないような、何とも言えない気持ちになりました。すると、ずっと遠くの方からかすかに、歌声のようなものが聞こえて来ました。日本語でもなく英語でもなく、ベンガル語とかアラビア語のような歌声です。そしてだんだんその不思議な声が、僕の方に近付いて来ました。

あれは一体、何なのだろう?


夢の奥から蹄の音が駆けよってくる
それは私の家の前で止まる
もう馬が迎えにきたのだ

私は今日の出発に気付く
すぐに寝床を跳ね起きよう
いそいで身支度に掛らねばならない

ああ そのまも耳にきこえる
彼がもどかしそうに門の扉を蹴るのが
焦ら立って 幾度も高く嘶(いなな)くのが

そして 眼には見える
霜の凍る未明の中で
彼が太陽のように金色の翼を生やしているのが


これは丸山薫『未明の馬』です。しかし僕に近付いて来た歌声は、迎えに来た何者かではなく、アパートの前を通り過ぎ、遠くに消えて行きました。歌声と共に自転車の車輪の音が聞こえたので、おそらく外国人が故郷の歌を口ずさみながら、新聞配達をしていたのでしょう。その歌をきっかけに、一日がひっそりと始まった気がして、カーテンを開けて窓の外を見ると、東の空が少しだけ、黄色く赤く染まっていました。