2022 12 作・演出についてⅠ


●演出と役者の関係

芝居作りには、作家として、演出家として、役者として、という三つの立場での参加の仕方があります。作家が書いた台本を土台に、演出家がリーダーとなって、役者たちの演技をまとめていくという作り方が一般的です。なので、作家や演出家の方が、役者よりも強い立場にあり、また、責任が大きいと言えます。そんな作家や演出家が、芝居作りについて述べた文章や発言を、いくつか引用させていただきます。

 戯曲家は、およそ言葉によって語りえるものは、すべて語り尽くさなければならない。例えば、役者の立つ位置、動き、表情など、およそ言葉にできる範囲のものは、すべて戯曲におさめるべきだと私は考える。(略)私の考える戯曲とは、世界そのものを写す設計図だからである。
 一方、役者は、その設計図に従って存在すればいい。(略)そして役者はこの世界で、「語りえない事柄」「曖昧で答えの出ない範疇」のみを演じることになる。私が考える役者は、戯曲家の設計図の中で生きる存在だからだ。
(平田オリザ『平田オリザの仕事〈1〉現代口語演劇のために』1995年)

 もちろん、台本があり、言葉は用意されています。それを「箱」だと考えず、もっと大きな、「世界」だと考えれば、どうやら身体がのびのびします。台本の台詞を覚え、演出家の指示に従うのが俳優の仕事ですが、そこに身体を押し込むのではなく、作られた世界のなかでのびのび生きることはきっと可能です。
(宮沢章夫『14歳の国』高校演劇必勝作戦 1998年)

 その小説(サリンジャー『出来損ないのラブロマンス』:引用者注)は、印刷工の若い男が電車の中で或る女に一目惚れする話で、その一目惚れの仕方が私は気に入っていた。電車の中の車内吊り広告を、口をポカンとあけて見入っているシャーリー・レスターという女の顔に、印刷工は一目惚れするのだ。(略)この時間! この女のこの時のこと、この時の状態さえ表現できればいい、と私は言ってきたわけである。(略)明らかにこの女は、その時間、実に無防備に「見られていた」わけであるが、この無防備を「見せる」ことが出来たら、と私は思うのだ。(略)ここに至って私は、俳優が何かを「表現する」という言い方が適切なのかと思うわけである。むしろ何かを表現するために「機能する」と言った方が適切な言い方ではないのか、と私は思う。
(岩松了『食卓で会いましょう』1999年)

 彼ら俳優は「演劇作家のぼくにとっての体の一部というか、楽器とかバットみたいな、それじゃなきゃだめな道具」(略)彼らとの共同作業から新たな方法論が生まれてくる
(岩城京子『東京演劇現在形 ― 八人の新進作家たちとの対話』岡田利規氏へのインタビュー 2011年)

 ぼくがイメージする「絵」だけにこだわっているので、それこそ俳優は小道具と等価なモノになってそこにいてくれればいい。このとき何を考えればいいかとか、役作りはどうすればいいかなどは、ぼくの作業の範疇外。ぼくが思う絵のピースになってくれさえすればいいんです。
(岩城京子『東京演劇現在形 ― 八人の新進作家たちとの対話』タニノクロウ氏へのインタビュー 2011年)

引用させていただいた演劇人の方々はみな、作家と演出家を兼ねており、上演作における責任者は自分であるという自覚のもと、役者の役割とはどういうものか、あるいは、(作・演出の)自分はどう役者と関係したいかを述べています。それぞれの考えに共通しているのは「役者は、台本の要請や演出家の指示に従う存在」というのを前提にしていることです。

ここで、いささか唐突ではありますが、権力の問題等を考察した哲学者、ミシェル・フーコーについて書かれた本(中山元『フーコー入門』)からすこし引用します。フーコーの著書『狂気の歴史』のなかに、18世紀のフランスにいた「近代精神医学の創始者」と呼ばれるピネルという人物の話がでてきます。ピネルは博愛家らしき医者で、狂人たちを縛りつけていた鎖を解き放ち、患者たちを理性的な人間として取り扱うことを決定します。まず、給仕人を殴り殺したこともある凶暴な狂人に、理性的なふるまいを約束させたうえで、鎖を解き、中庭を歩く自由を与えたそうです。すると彼は自由に感動したあと、発作的に暴力的になることはなくなり、その後、自分なりに他の狂人を支配して番人のようになり、施設に有益な人物になったそうです。

 狂者はそれまでは鎖で身体を縛られているだけであり、心は野生のままに猛り狂っていた。しかし身体の鎖を解かれた患者は、それからはピネルのまなざしに身体を貫かれながら、心を鎖で縛られるようになる。他者の道徳を自己の道徳として確立し、社会的で道徳的な主体として自己を確立することで、<治癒>するのである。(略)
 これは狂気の治癒にまつわる逆説である。自己の疎外(=狂気)が解消されるはずの治癒が実現されるのは、自己の完全な疎外においてでしかない。

またフーコーは、「権力」をマルクス主義的なイメージ(階級の対立)で捉えるのではなく、社会の内部(日常生活のなか)で普遍的に働くものとして捉えていたそうです。真理を語ると自称する者とその真理を信じる者、教師と生徒、上司と部下、男性と女性、父親や母親と子供、といった人間の間に張りめぐらされた、力関係の網の目として権力を認識していました。著書『監視と処罰 ― 監獄の誕生』のなかに、監獄建築のモデルであるパノプティコン(一望監視装置)の話がでてきます。

 これは、円環状に配置した建物の中心に監視塔を建て、この監視塔から周囲の建物のすべての部屋が監視できるようにした装置である。
 重要なのは、この装置では、中央の監視塔に監視者が常駐している必要がないことである。監視される可能性があることで、監視される者の心の内側に、第二の監視者が生まれる。(略)
 この装置は近代の資本主義社会の基本的なモデルとなった。この装置は、支配の対象となる者の身体の表面に注がれるまなざし(の可能性)によって、被支配者の精神と身体を拘束すること、そしてその道徳性を向上させ、生産性を改善することを目的とする。

芝居のことに話を戻しますと、いま僕が確認したいのは、下手をすれば芝居作りは、稽古場は閉鎖的な性格の場所でもあるので、立場の強い演出家が、権力をもった監視者のようになり、一方役者は、そのまなざしに身体を貫かれ自己を疎外された、被支配者のようになってしまうという、そんな事態になる恐れも否定できないということです。そして、あらためて検証したいのは、「役者は、台本の要請や演出家の指示に従う存在」という、前提についてです。

すこし時代をさかのぼり、引用させていただきます。

「あなたは、いつ見ても黒い服ですね。」
「喪服なの。」
この訳(チェーホフ『かもめ』の、マルグリット・デュラス訳。言葉を削除しながら訳し、台詞を短くしている:引用者注)は、チェーホフを痩せさせた訳と見えるかもしれぬが、見方を変えれば、こうして生れた新しい魅力はないだろうか。
「わが人生の喪服なの。あたし、不仕合せな女ですもの。」(本来の訳:引用者注)より、「喪服なの。」の方が端的に言って素敵になったといえないだろうか。<伝達>の言葉が削られ、<役>が薄くなり、それによって、やや寂しげになっているが、新しい自由を獲得した女が背筋を伸ばすような気配とともに、同時代人の表現として新しいものが感じられないだろうか。
 役が薄くなり、筋が薄くなる。それは、一つの自由の獲得である。役の枠を脱ぎ、筋の枠から脱することである。
 役がなくても、筋がなくても劇は成立する。
(太田省吾『劇の希望』1988年)

ふつう「劇的」というと、なにか大きな出来事が起こり、それが緊張や感動等を生みながら展開することを指していて、役者がその劇的な物語の登場人物を演じる場合、物語の枠組みのなかで、緊張や感動を体現する役割を背負うことになりますが、太田省吾氏は、そんな「劇的」にそった劇表現を疑い、物語や役柄の枠からでていくことで、劇表現の新しい自由を手にしたいと述べていると言えます。

アングラ演劇のある劇団が昔(1970年代位に)おこなった稽古の話で、トランプほどの大きさのカードを数十枚用意して、チェーホフの台本の台詞を、一枚につき一言ずつ書いていき、(ゲームの神経衰弱のように)そのカードをよく混ぜてから床に裏向きに広げ、選んだカードの台詞を必ず言うというルールのもと、役者たちが任意にカードを選びながらエチュードをしたという話を聞いたことがあります。元々の筋書きや会話の前後のつながりは無視して、選んだ一言で瞬発的に演じてみることになるので、荒唐無稽な即興劇になっていたと推測できますが、台本を真面目に解釈することを放棄したような、その稽古の目的は、物語の枠組み(=不自由)を壊して、演技表現をできるだけ自由に拡大させることであり、おそらくその前提にあるのは、「役者は本当は、台本の要請や演出家の指示に、従いたくない存在」という認識であると言って良いかと思います。すくなくとも、「役者は、台本や演出に奉仕する存在ではない」と考えられているはずで、僕もその考えに共感します。

芝居は、作・演出家のためのものではないと僕も考えます。しかし、それでは逆に、芝居は役者のためのものでしょうか? 役者のなかには、実際に本番の舞台に立つのは自分たちだというのを根拠に、「舞台は役者のものだ」という意味のことを言う人も、いない訳ではありません。その人は役者第一主義という風な、役者(自分)のための台本や演出に焦がれ、夢想しているのかもしれませんが、役者が権力者のようになり、作・演出家がその御付きの者のようになる関係も、もちろん違うと思えます。つまり「作・演出家は、役者に奉仕する存在ではない」ということです。

それでは、作・演出家と役者は、どう関係していくべきでしょうか? その参考として『なにもない空間』(1968年)という本から引用させていただきます。著者はイギリスの有名な演出家、ピーター・ブルック氏です(作家と演出家は兼ねず、演出専門に活動されていたようです)。本のなかで、ブルック氏が若い頃に出演者が40人いるシェイクスピアの台本を演出したときの話がでてきます。それは若きブルック氏にとって初めての大仕事だったそうで、役者やスタッフたちに軽蔑されることを恐れ、稽古初日の前の晩に、舞台装置の模型と、ボール紙を曲げて作った40個の人形(40人の役者の代わり)を用意して、幕開きの群衆の登場の場面の、役者の動きのシミュレーションを、人形を使って長時間かけておこない、たくさんのメモを書いたノートを作り、まさに準備万端で自信をもって、稽古初日に臨んだそうです。

 ところが、俳優たちが動き始めると、わたしはすべてがまるでうまく行かないことに気づいた。そこにいるのはボール紙の人形とは似ても似つかぬ大きな人間たちで、ある者は、わたしが予想もしなかった生き生きした足どりでどんどん前進し、不意にわたしのところまでやって来て、しかもとまろうとはせず、わたしを見つめながら、なおも進みたげな様子を見せた。またある者は、ためらったり、立ちどまったり、いやそれどころか優雅に気取って振返ったりさえするのだった。すべては意外だった。(略)わたしはがっかりし、あれだけ準備をしていたのに、どうしたらいいのかまったくわからなくなった。俳優たちがわたしのメモどおりのことをするように教えこんで、もう一度やり直せばいいのだろうか。わたしの内なる声の一つは、そうせよと命じた。だがもう一つの声が、眼前に展開している新しい動きはわたしが考えていた動きよりずっと面白いではないかと語った。それはエネルギーに満ち、個人個人の違いを表わし、それぞれの俳優の熱意や怠惰さによってまとまり、さまざまに異なったリズムや数多くの意外な可能性を内に秘めている。(略)わたしはそれまでしていたことをやめ、ノートをおいて俳優たちの間を歩いて行った。そしてそれ以来、あらかじめ書いておいたノートを見て仕事をしたことは一度もない。生命をもたぬ模型が人間の代わりになるなどと考えていたことの愚かさと傲慢さを、わたしはその時決定的に思い知らされたのである。

この話で大切だと思えるのは、台本にそった机上の準備を完璧にしてきたブルック氏が、それを実践するはずの稽古場のなかで、役者のエネルギーやリズムを体感し、葛藤しながらも思い直し、より良い芝居を作るために、ノート(=台本にそった机上の準備)をおくべきだと判断したことです。

他の文献から、さらに引用させていただきます。

 わたしは劇を、言語としての劇のうえにたって演じられる劇にいたる総体性とかんがえる(略)
 言語としての劇と演ぜられる劇とは、それぞれ独立にわかれた過程として成り立っている。そしてこの分離こそは、演劇において俳優が戯曲過程から境界をへて演技過程へと二重の過程をとおり、俳優として自立するためどうしてもふまなくてはならない条件だということができる。
(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1965年)

 演劇というのは、それをひとつの「行為」と考えるならば、人間を最も生々と躍動させるためのシステムのことである。(略)
 「人間を最も生々と躍動させるためのシステム」というのも、決して単純なことではない。人間というものは総合的な存在であり、この場合の「躍動」も、総合的でなければならないからである。言語においても所作においても、精神においても肉体においても、時間においても空間においても、個人においても集団においても、同様の「躍動」がそこに保証されていなければならないのだ。そして重要なことは、これらそれぞれの条件は、それぞれに矛盾するということである。言語は反所作的であり、精神は反肉体的であり、時間は反空間的であり、個人は反集団的であるということだ。つまり、人間が総合的な存在であるということは、それぞれの条件において、相互矛盾的な存在である、ということにほかならない。従って「躍動」のシステムは、これら矛盾する諸関係を、解きほぐすためのシステムと言いかえることが出来る。
(別役実『電信柱のある宇宙』1980年)

すこし難しい文章ですが、「言語としての劇」とは台本のことで、「演じられる劇」とは役者が身体や声をつかっておこなう演技のことであり、そしてこの二つは芝居作りにおいて、それぞれ独立した要素であるという風に考えて良いかと思います。若きブルック氏は、台本にそった準備(「言語としての劇」を重視)と、稽古場での役者の演技(「演じられる劇」を重視)の狭間で葛藤をしました。また別役実氏が、演劇というのは「矛盾する諸関係を、解きほぐすためのシステム」と書いていますが、それも手がかりにして考えれば、「言語としての劇」と「演じられる劇」、つまり、「台本」と「演技」はお互いに、矛盾するのだと言えると思います。

演出家にとってのいちばんの課題は、「役者とは、台本に矛盾する存在である」というのを前提に、役者とどう関係するかを考えることであるように思えてきました。
作・演出についてⅡにつづく)