DA・BUNU

2004年11月から2007年8月まで、「DA・BUN〜駄文につき〜」と題したエッセイらしきものを連載しておりましたが、
一年間何となくお休みしてしまいました。08年8月より、
「DA・BUNU」と新たに題し、再開させていただきます。
すぐにまた間が空いて、「DA・BUNV」と新たに題してしまわないよう、続けていきたいと思っております。




                           ボタタナエラー 村田
2009年6月

 ここ最近の休みの日の、その過ごし方について書きますと、昼過ぎまで寝て空腹で目が覚め、パソコンに手を伸ばしネットでピザを注文し、ピザ屋の配達員という他人の目を一応気にして、目やにを取ったり等の最低限に身なりを整え、敷布団と掛け布団を一緒くたにエイッと折って半分に丸め、それに背をもたれダラッと座りピザを待ち、それらしきバイクのエンジン音が聞こえたら、きたない部屋を配達員に見られたりせぬよう、お金を手に迅速に外へ飛び出し、バイクの前に立ちはだかれば、呼び鈴を鳴らす前に注文客が登場といった、予想外の早い展開のせいか、配達員はカウンターパンチを浴びたボクサーにも似た、戸惑いの表情を一瞬浮かべつつたじろぎ、ここで僕が明るく「ご苦労様ですっ」と、笑顔で元気に声を掛ければ、「失礼しましたっ、ご注文の品ですっ」と、ピザをスマイル付きで手渡してもらえるのでしょうが、僕は身なりを整えたとはいえ、目やには取っても顔は洗わず、色褪せて少し破れてもいる寝間着兼部屋着は着替えておらずで、堂々と人前に出れるレベルではなく、自信の無さから元気を失い、どこかコソコソした立ち振る舞いになり、それに配達員も何となくつられたのか、「お、お待たせ……し、しました」とピザ入りの箱をコソコソ取り出し、まるでいけないものでも取引するみたいに箱とお金を交換し、逃げるようにバイクに飛び乗って去り、そして僕も逃げ込むように部屋に戻り、そして食欲という本能を剥き出しに、指や唇をギトギトにしながらブツに食らいつき、それから冷蔵庫にある缶の麦酒をプシュッと開けて、「休日の贅沢な過ごし方」の最右翼と思われる、「真っ昼間から酒を飲む」というやつをやり、その幸福な食事の後は、レンタルした映画のDVDをパソコンに挿入し、背もたれ布団にゴロッと座ってしばし鑑賞、そうすると刺激された満腹中枢とほろ酔いから睡魔に誘われ、これまた「休日の贅沢な過ごし方」の一つである、「お昼寝」というやつを始め、放屁でも一発決めてトロンと眠り、しばらく惰眠を貪って、その幸福な午睡の後に、窓の外へ目をやれば、夕間暮れか宵の口かの明るさで、ああまた俺はせっかくの休日の時間を、無為に潰してしまったのかと思い、しかしまだ起き上がらぬまま、部屋を改めて眺めてみれば、床には色んなものが散乱していて、中には踏んじゃいけないコワレモノもあるので、近頃はもの達を器用によけつつ爪先立ちで歩いたり、時には踏んで差し障り無さそうなものなら、思い切って踏んで歩いたりという始末なので、もう大概に掃除をちゃんとしなくちゃいけない、そして洗濯すべき衣類達も、入れられた籠にたっぷり積まれて盛り上がっており、まるで屹立する山の如き有様で、その頂上辺りでは、肌着やタオル等の小さめのものに、上着やズボン等の大きめのものがギュッと押さえつけるように被せてあり、これはつまり山が雪崩を起こさぬための工夫を施している訳ですが、そんな工夫の前に一刻も早く洗濯すべきで、よし今からでも遅くない、簡単にでもいいから掃除をして部屋の中の交通の便をよくし、それから山の八合目まででもいいから洗濯して衣類を撤去しようと考え、まずこの弛緩しきった臥位という状態から脱却しようと、立ち上がるため「ヨイショッ」と掛け声を出すつもりが、「ヨ……ムニャー」みたいな声が出てしまって、床から背中が15°ほど刹那に浮かんだだけで沈んでしまい、ああ、起床というのはこんなにも、大変な労苦だったろうかと呆然とし、そしてその呆然という状態をしばし続けてしまったせいか、恐ろしい事に再び眠気に襲われ、いっその事もう起きるのなんか諦めて、大地の引力に無条件で従うみたいに、どこまでもどこまでも眠りの世界に沈んでいきたいとの欲求が芽生え、けれどもこの今日の寝坊と昼寝は、不眠の苦を夜中に味わせるだろう、そして明日グッタリとして朝を迎えるだろう、なんて意味のない不毛な休日を俺は過ごしているんだろうとの、まどろみに水を差す理性的な考えも浮かび、しかしながら今この瞬間の、眠りと覚醒の狭間ともいえる状態は、なんて心地良いのだろうと深く思い、この心地良さは無意味さゆえの、不毛さゆえの心地良さに違いなく、今の俺には活動的な自分なんてイメージ出来ない、起きてあくせく有意義に過ごすだなんて真っ平ごめんさ!という心の声が聞こえ、僕は眠りの世界へと自分を優しくいざなって、何かノンビリしたものを夢を見るように空想してみる……例えば大昔の人間の生活……日が出たら起き日が沈んだら寝るみたいな今より遥かにボンヤリした暮らし……それにひきかえ現実という覚醒の世界では、時計の時間に振り回されながら、意味ある事柄を追及する人々が今日も蠢いている……それは不自然で間違った暮らしじゃないのか……今日俺はこれ以上なく無意味にダラダラ過ごしているが、それはふだん覚醒の世界でこの身にまとわりついて染み込み過ぎた、“意味”みたいなもの達を、今日の“無意味”の働きによって抜くためである……リセットをするという事に近いかも知れない……決してメンタル面の弱さから来る無気力とか、年齢と共に疲れやすくなって来ているとかのせいではないのだ……と、眠りと覚醒の合間を縫って考えたのち、放屁でも一発決めてトロンと眠りに落ちたのでした。

 以上ここ最近の休日の過ごし方について書きました。休日の次の日ははたせるかな、グッタリとして朝を迎え、きたない部屋の様子に呆然となり、昨日ダラダラ過ごした事を早速悔いてしまいました。しかしあまり呆然としている暇も無く、時間に追われて部屋を出て、“意味”のはびこる覚醒の世界のただ中へ、慌てて向かっていったのです。



2009年 春

 今年に入り、外部公演の演出を担当したり、また経済的事情から、新しいアルバイトを始めたりと、割と慌ただしい日々が続きました。何を述べているかと申しますと、数ヶ月このエッセイの更新が滞ってしまった言い訳を、今いきなり書いているのですが、更に言い訳を重ねれば、急に到来した不況による、厳しい時代の09年、そして来るべき10年代を、どういう風に過ごすべきか、ジックリ考えて書きたかったのです。しかしまあジックリというか、ノンビリ考えていた所もかなりあり、ノンビリ考えればその考え事は、だんだんボンヤリして忘れて来るので、いい加減ちゃんと文章に書きながら、ハッキリした頭で考えよう、それにHPだって更新しなければ、サーバー代だってもったいないしという事で、いま何だかちょっと文章が、呑気な文面になっておりますけれども、呑気に構えてちゃいられない、厳しいと言われるこの時代を、どう過ごしたら良いものか、今回は述べてみたいと思います。

 「厳しいと言われるこの時代」という風に書きましたが、その「厳しい」の主語を考えますと、「生活」とか「現実」などが当てはまります。その厳しさを象徴するものとして、勤務先の工場等から急に契約を切られた、非正規社員で賑わう派遣村を思い付きまして、年始にやっていたニュース番組では、その弱い立場に同情し、会社側を批判するような報道を何度か目にいたしました。僕も以前派遣(製造業派遣ではなく日雇い派遣ですが)を長くやっていたので、ニュースの中でインタビューされた人の、「会社側の連中は、俺達を使い捨てにしやがった」との言葉に、派遣時代の自分の事を思い出して共感し、会社側は敵だという立場で、批判に加担したいような気持ちを持ったりしました。

 けれども、その加担したい気持ちですが、ちょっとそんな気になったという程度であり、それは言ってしまえばこの派遣村の騒ぎは、今の自分にとってはテレビで見ただけの他人事であり、更に素朴な疑問として、会社の業績が悪くなれば、まず派遣が切られるのは当たり前じゃないのかとも感じたりして、少し被害者の顔をし過ぎているんじゃないか、そして派遣村の支援者も、その被害者意識をあおり過ぎじゃないかとも思え、「自分は弱者」とか「自分は弱者の味方」みたいに思い詰めて、周りが見えなくなっている状態に近いのではという風にも感じたのです。

 ただもちろん、急に職や住まいを失えば、困り果てるのは当然だし、不当な扱いを受けたなら怒らなきゃいけないとも思います。でもこうやって書きながら、製造業派遣の経験はない僕が、ニュースで見ただけなのに長々書くのもどうかという気もして来ましたので、自分が昔やっていた日雇い派遣の事を思い出し、それについて少し書けば、僕が登録していたG社では、給与支給の際「データ装備費」という名目で、日給からいつも200円位が天引きされる仕組みになっていて、たしか「皆さんに安心して作業していただくための、保険料みたいなもの」といった説明を受けていたのですが、実はそれが大嘘で、そういう名目でG社が僕らから詐取していたという事実(有名な話ですが)がありまして、本当に頭に来る話であり、そのG社のチリも積もれば的に掠め取るやり口の、セコさ、みみっちさにならって、僕もG社に対して極めて心を狭く持ち、一生というか永遠に、この騙された事実は忘れず、いつまでもいつまでも、根に持ってウラんでやると、心に誓っている次第であり、湧きあがる怒りという感情に任せて、G社の悪口を色々と言いたい気分に、書いてて今なって来ましたが、そういう気分になりながら、製造業派遣について想像すれば、「バッチリ稼げる」「寮完備」「大企業の仕事だから安心」みたいに求人広告等で謳われていたのに、突然「派遣は景気の調整弁」と、当然のようにクビを切られた訳ですから、騙されたような気になって、カッとなるのは当たり前だし、仮に僕が同じ状況におかれていたなら、派遣村の事を知るやいなや、日比谷公園へ直行し、怒りに任せて騒ぎながら、年を越したかも知れないと思え、アメリカ発の、ファッキンなヘッジファンドらが元凶と言われるこの不況の、あおりを食った被害者には違いないし、被害者ヅラして何が悪い、怒って騒いで何が悪いと、やっぱり思えて来たのです。

 しかしながら、意見をコロコロ変えるようですが、やっぱり頭を冷やしてみて、怒りに任せず考えてみれば、自分達は被害者だ!と声高に断言する事に、少し引っ掛かるものも感じ、それは僕がG社の登録スタッフの頃、つまり日雇い派遣時代に聞いた話を思い出しからで、その話とは、自分達みたいな若い日雇いが、年配の日雇い労働者の仕事を奪っていて、その結果ホームレスが増えたらしいという内容であり、当時は別に気に留めず、スルーしてしまったこの話を、今更ながらスルーせず、気に留めて考えたなら、自分達は完璧な被害者という訳じゃなく、加害者な所もあったと言えるように思い、G社にしても、昔ながらの雇用制度を疑問視する世間の声を受け、外国を見習って、資本主義社会に貢献すべく、企業活動を行った部分はあるはずで、なのに今その世間から、手の平を返され大バッシングされ、社会的な制裁を受けてるとも言えますから、被害者な所もあるという見方も、出来なくはないのです。

 「厳しいと言われる時代をどう過ごすか」について書くつもりが、ちょっと逸れて来た気がしますので、話を元に戻しますと、この不況という厳しい時代は、手にしたものを失ったり、あるいは何かを手にするチャンスを失ったりと、失う事の多い時代のようです。そしてまた、例えば派遣では「派遣は景気の調整弁で弱い立場である」という風に、不況によって本質的な所が露呈してしまった訳ですが、こういう露呈は世の中全般に当てはまるのかも知れないと思え、つまり物事の本質が、今までよりも見えやすい時代になったような気がいたします。失う事が多いと思えば気が重くなりますが、物事の本質や正体が見えやすくなるならば、見ておいて損はないというか、むしろよく見ておくべきだし、現実世界が厳しさによって、メッキが剥がれ、キレイゴトやデマカセ、マヤカシ等の効かない世界になると捉えれば、重たい気分とは逆の、スッキリ爽快な気分もして来たりいたします。

 前述の派遣村関係の事については、見方をコロコロ変え過ぎて、ちょっと節操のない文章になってしまった気がするのですが、この際「厳しい時代」も見方を節操なく変えて見れば、マイナス面だけじゃなく、色んな面が現れるのではと思います。とりあえず、この時代の過ごし方の一つとして、余裕が無くても思い詰めずに、いろんな見方をしてみるというのが、有効なのではと思えて来ました。



2008年11月〜12月

 たしか去年の今頃位は、世の中の景気は好況だと言われてたように思いますが、今年に入りしばらく経つと、急に「不況、不況」と騒がれ始め、けれどもまあ自分は別に影響ないだろうとタカをくくっていたところ、長年僕が働いているアルバイト先が、影響をモロに受けてしまったらしく、その関係で勤務時間が短縮されたため、財布のヒモの緩め具合を、見直し改めざるを得ず、ここ数年は「無駄使い」の「無駄」の基準が、割と甘めだったので、できれば甘さゼロの「無糖」、少なくとも「甘さひかえめ」位まで、基準を厳しくしようと思ったりして、頭をちょっと悩ましてますが、こういった個人的事情のせいか、新聞や雑誌に踊る見出しの中の、「金融危機」や「株価下落」等の言葉が、最近よく目に入るので、それらの記事を読んでみると、「多くの企業が減産や人員削減をおこなう」とか、「多くの企業が倒産する」といったネガティブな内容が書かれていて、気持ちが少し沈んでしまいましたが、経済的な事情を抱えて、気持ちの沈んでしまっている人は、いま世間に数多くいるように思え、そういう人々が全員、財布のヒモを締めがちになれば、景気は更に悪くなりそうだし、それによって国民全体の気持ちのレベルも、更に落ちてしまいそうだし、これはもう、政府の景気対策とかに期待するしかないのかも知れませんが、新聞や雑誌で読んだ記事には、「世界的規模の不況で対応策なし」とか、「百年に一度の危機」とまで書かれてたりしていて、これはもう、一体どうしたら良いのでしょうか。

 ネガティブな内容の文章が思わず続いてしまいまして、ちょっと心配し過ぎかも知れないので、このネガティブさをいったん忘れ、無理矢理にでもなるべくポジティブに、改めて世間を見回してみれば、ホントにいま世の中不況なのかと、疑う事も出来なくもなく、例えば夜に渋谷とかの街を歩いてみれば、そこら中で大きな看板のネオンがキラキラしてるし、またクリスマスが近いという事で、街路樹も電飾でキラキラしてて、その横を楽しげに子供たちも歩いているしで、以前僕がビデオで観た、終戦直後の頃の邦画で描かれた街を思い出せば、職を求める失業者たちが、ギラギラした眼をしてあふれかえったり、またたくさんの浮浪児たちが、道端に座り込んだりしてたので、当たり前ですがそれと比べると、現在は不景気な印象など全くなく、だからこの不況も一時的に違いない、大げさに言われてるだけなんだろうと、軽く考えて済ませたいとも思え、けれども渋谷駅から街を眺めてみれば、キラキラしている看板の中で、一番多いのは消費者金融の看板であり、クリスマスのムードに浮かれ、何か買い物をして子供のようにはしゃいでる人でも、借金で買ってる人が多くいるなら、表面上景気良く見えてるだけで、実際はその真逆というのも、少し考えたら分かる事で、僕は経済についてや世界情勢について、全然精通しておりませんが、いまの豊かさなんか表層だけだと言わんばかりに、街の風景や人の気持ちを、ジワジワと壊して傷つけるようなキツいものが、近い将来目に見えて現れるのではという、嫌な予感が何となくしてしまったのでした。

 新聞等によると、来年の景気も明るい展望は描けないという風に、大方見られてしまってるそうで、厳しい時代がホントに到来するのかも知れません。「楽」か「苦」かと言えば明らかに「苦」が待っていそうな感じで、暗く沈んだ時代が来そうなのですが、そうなれば逆に「苦しい時こそ自分を磨ける」とか、「マイナスを体験する分プラスに生かそう」みたいに考えて、ポジティプに持っていくべきかと思います。けれどもこれははっきり言って、実際その時になってみないと、ホントにポジティブになれるかどうか、正直僕の場合分かりません。でもそれは僕に限らず、皆そうだろうとも思う訳で、余裕のある時と追い込まれた時は違いますから、誰しも油断は禁物だろうと思えます。嫌がっても時間は止まってくれはしないので、来年どんな時代が来ようとも、迎えるしかないのでしょうし、とりあえず、今年の忘年会等で飲んだ時には、そんな事を考えつつ、来る年を歓迎しながら、酔っ払いたいと思います。



2008年9月〜10月 『ガニメデ ハイツ』終了いたしました。ご来場の皆様ありがとうございました。
 
 先日コーヒーを飲もうとあるファーストフード店に入ったところ、店内は結構混み合っており、店員さんもバタバタと忙しそうにしていて、レジカウンター前の列に何分か並び、やっと自分の番が来たので「アイスコーヒー1つ」と注文すると、「ガムシロミルクは?」と聞かれたので、「入りません」と答えたのですが、しばらくしてから「お客様お待たせしました」と言われつつ手渡されたのは、アイスコーヒーではなくホットコーヒーで、しかもミルクと砂糖も手渡されてしまい、「いや、僕アイスです。しかもブラックっす」と言おうとしましたが、店員さんは手渡すやいなや、他の客が注文したものを準備するためカウンター奥へすばやく立ち去っており、もしこれが炎暑たけなわの真夏の出来事であれば、ホットは勘弁してほしいので、「俺アイスだしブラックだぜ!」と、カウンター奥まで届く大声で、ビシッと言ってやったのかも知れませんけれども、その日は暑くもなく寒くもなく、どちらかと言えばアイスが飲みたいという感じでもあり、また知らない人達の前で大声を出すのは、僕はどちらかと言えばしたくないタイプなので、そのままホットコーヒーを持って空いてたテーブル席につき、コーヒーはどちらかと言えばブラックをよく飲むという程度なので、この際せっかくだからと砂糖とミルクを入れて飲みつつ、「コーヒー」という事のみしか伝わらなかった、ディスコミュニケーションな感じのこの出来事の原因について考えてみますと、僕がボソッとした喋り方で注文したため聞き違えられたのか、あるいは店員さんが忙しさで頭が混乱して思い違えたのか、あるいはもしかしたら、コーヒーしか頼まない客に対する、店員の嫌がらせなのかとも考えましたが、コーヒーしか頼んでない客は僕以外にも割といたので、嫌がらせとは考えにくく、だとすれば聞き違えか思い違えだろうと考えて、そしてコーヒーの飲み方に関しては、全て真逆に伝わってしまったという、今回の見事なディスコミュニケーションぶりに、何だか感じ入ってしまったのでした。

 この10月に僕は芝居の公演をやっていまして、その稽古において演出をする際、会話が噛み合っていないとか、お互いに言う事をちゃんと聞けていないとかの、つまり(舞台上に現れる人物同士が)コミュニケーション出来ていないといった意味の、ダメ出しをした事がありましたが、その一方で、会話がスムーズに流れ過ぎてるとか、仲良く話し過ぎてるとかの、上手くコミュニケーション出来過ぎてるといった意味の、ダメ出しをした事も割とあり、それはコミュニケーションというものは、取れてそうに見えても案外取れていない等のケースが、多々あるように思えるからで、例えば会話がすごく弾んでいる三人組がいるとしますと、会話を楽しむその三人が、全くの同じ度合で楽しんでいる事などあり得なく、その度合には必ずズレがあるという風に思え、そのうち誰かが「この話そろそろ飽きた」とか、「もう帰りたい」とか思い始めたり、あるいは不本意にその場に居合わせていて、相手の事を嫌いなくせに、ニコニコ相槌を打ってる場合だってあるかも知れず、このように「コミュニケーション」の中には程度の差はあれ、「ディスコミュニケーション」が何らかの形で、混じっているように思えるのです。

 10月の公演の話をもう少しいたしますと、ご来場の方々に公演の感想を聞いてみたところ、当たり前かも知れませんが実に色んな感想があり、ホメる人もケナす人も、そのポイントがそれぞれ少しズレていたりして、また話にまとまりがないだとか、話をまとめ過ぎてるとか、役者の演技が自由過ぎるとか、役者が窮屈そうに芝居してるとかの、逆の事も言われたりして、多少混乱もいたしましたが、観た人それぞれに違う感じ方があるのは自然な事で、もし全員が全く同じ感想だったら、ちょっと気持ち悪い気もするし、公演を観た人々が、それぞれ違うものを持って帰るという風にイメージすれば、芝居が様々な方向に広がって、豊かになっていくような印象もするので、そういう意味で、色んな感想があって大歓迎だと思えるのです。

 コミュニケーションに話を戻しますと、違う感じ方を持つ人間同士が交わる訳ですから、コミュニケーションすればする程、理解し合う部分が増えると同時に、ディスコミュニケーション的なものも増え、自分と相手とのズレも膨らむように思います。ですので「気が合う」という言葉がありますが、それには価値観を共有するといった意味のほかに、そのズレを楽しめるという意味も、含まれるのかも知れません。

 今回はディスコミュニケーションの大切さみたいな事を書きました。けれどもこれからの冬の一服の際に、アイスコーヒーを手渡されたくはないので、なるべくハッキリ大きな声で、注文の時には「ホットコーヒー」と、しっかり伝えようと思っております。



2008年8月

 
日差しの強い季節が到来いたしまして、晴天の日に直射日光を浴び過ぎますと、熱さで頭がボンヤリしますが、先日も炎天下の外出の際に帽子を忘れ、ジリジリと頭が熱せられ、ボンヤリとして来たその頭で、「太陽の奴め、今日は一段と俺を照らし痛めつけ、苦しめやがる」などと考えたのですけれども、当たり前ですが太陽にとって、地球上の特定の区域の季節の事なんか、知った事ではない訳で、はるかはるか凄い昔から、延々とマイペースに光や熱を発し続けており、そして地球はその回りを勝手にくるくる回っている、一介の惑星に過ぎないし、更に地球の誕生までさかのぼって考えれば、太陽の引力に捕われた小岩石みたいなモノが、くるくる回りつつぶつかり合って、くっついて出来た大岩石みたいなモノが始まりで、それがのちに地球と呼ばれるようになったに過ぎないし、更にもっと言えば、その大岩石みたいなモノに、たまたま太陽光がちょうど良い具合で差したために、大気や水や、単細胞的なイキモノが生まれ、その単細胞的な奴が進化して、色んなイキモノがウヨウヨと生まれ、人間もその進化の流れで派生して現れ、繁殖してウヨウヨし出し、現在地上で大きな顔が出来ている訳でありますから、先日の僕みたく、「今日は太陽が一段と熱い」と考えたりする事や、あるいは「今日紫外線ホント有害。ブロック!」みたいな事を言って、クリームを塗る色白ネエちゃんたちの態度とかは、勘違いして思い上がっていると言えまして、繰り返しますが太陽は、気が遠くなるほど凄い昔から、光や熱を発し続けている訳ですから、地上で勝手にウヨウヨし出した人間なんぞ一顧だにせず、延々とマイペースに熱くて光る、有害な星であると言えます。

 もちろん有害であると言っても、人体や地上に悪影響も及ぼしかねないという程度の害で、太陽無しには人体も地上も、そもそも存在しなかったので、有害な一面を持ちつつも、やはり太陽は有益過ぎるほど有益な、とんでもなく素晴らしいモノで、太陽に寄生しているチッポケな地球、その地球に寄生している超チッポケな人間という風に見れば、人間は太陽の寄生虫に、更に寄生しているという、寄生虫以下の卑小なイキモノで、もし太陽が無ければ何にもどうにもならない我々ですから、もう太陽こそが神であると、人類みんな宗教を超えて、認識すべきかも知れません。

 古代文明諸国の一つ、エジプトでは、かつて太陽を神として崇めていたそうで、日の出の際には皆で朝日にぬかずいていたそうですが、古代人の世界観で描かれた、世界全体のイメージを一つ挙げれば、人間が立つ大地の下には、それを支えるたくさんの象がいて、その象さん達は、一匹の目茶苦茶でかい亀の背中に支えられていて、更にその亀は、目茶苦茶でっかくて長い一匹の大蛇の上に乗っており、その大蛇が一番下から亀、象、大地に覆い被さる形で天空を作り、そして太陽は、朝に亀の口の辺りから出て、夕方に亀の肛門の辺りに引っ込むみたいなイメージで、現在の目から見てみれば、バカ者が夢想したアホなイメージのようですが、そういった地動説が唱えられるよりもずっと以前の、地球中心的で無知な古代人でさえ、太陽を神と崇めていた訳ですから、地球が太陽を中心として回っている事を、常識として知っている現代の我々は、古代人よりももっともっと、太陽を崇拝せねばならないと言えます。

 しかし現在の世界も改めてよく観察すれば、わざわざ僕に言われるまでもなく、直接的ではありませんが、太陽はしっかり崇められていると言えそうな所もあり、例えば歌や小説や映画等のタイトルに、「太陽」という言葉はよく使われてますし、その他ビルやマンションの名前でも、「サンシャイン」や「サンハイツ」などがありますし、そういう風に「太陽」を引き合いに出す等の、間接的なやり方で、崇拝の念を表していると言えそうに思われます。

 話はややそれますが、以前ロシアの文豪ドストエフスキーの著作、『罪と罰』を読んだ事がありまして、この小説は頁数がかなり多めで、そして罪を犯した主人公の、常に緊張を強いられている精神状態を、読んで追体験していくような内容なので、読み終わりグッタリした思い出があり、しかし今となってはストーリーをほぼ全部忘れてしまっているので、一体何の為に頑張って読んだのか、全く分からない次第ですが、辛うじて一つ記憶に残っているのは、主人公を追う立場の(たしか)刑事が、主人公に対し、自首を勧めるシーンみたいなのが(たしか)あり、その時の台詞の中に「あなたは太陽にならなくてはならない」といった文章があり、それはこそこそ逃げ回るよりも、堂々と自首をするという、その行為の立派さを太陽に例えている台詞で、そして「太陽」になれば、周りの人々はきっとあなたを仰ぎ見てくれる、つまり、惑星みたいに光を浴びるだけの存在よりも、自ら光を放つ星である、「太陽」のような存在にならなくてはいけないといった意味の事が書かれてまして、まあこんな長ったらしい台詞では(たしか)ありませんでしたし、ストーリー上別に重要な台詞でもなかった気がしますが、「自分も太陽になりたい」みたいな事を、ちょっと僕も思ってしまって、その台詞だけ記憶に残っているのです。

 『罪と罰』まで思い出し、「太陽」に対する崇拝の念を、再確認した僕でありますので、恥ずかしがらずに古代人に習い、早起きをして朝日にぬかずき、更に古代エジプトで呼んでいたように、「太陽神ラー」と呼び、「ああ、うるわしき神、ラー様よ…僕を抱き給へ」などとウットリ呟き、祈りたい気持ちが生まれましたので、周りの人々に声を掛け、太陽の凄さを説いて回って、一緒に祈ろうと誘ってみたくなったのですが、きっとそのお誘いは、アッサリ断られてしまうとの予感が、残念ながらせざるを得ず、私そんなヒマ人じゃないとか、そんな事して何の得があるのとか、早起きがムリ、やっぱり恥ずかしい、バカだと思われたくない、などなど様々な事を言われそうで、つまりメンドくさいとか、古代人の真似なんか嫌とかの理由で、ほとんどの人に断られそうですが、それ以外の理由として、「太陽ってホントに凄い星なのかい?」などと冷ややかに言い、太陽への不信を理由として挙げ、僕をドキリとさせながら、ニヤリとしつつ断る奴も、中にはいそうな気もいたします。

 太陽の凄さに懐疑的なそいつはおそらく、科学が得意分野の奴で、そ奴の言い分を予測してみれば、「宇宙には、太陽よりでかい星がワンサとあるぜ」とか、「太陽なんかガスで出来てて、ガスが無くなったら死ぬんだぜ」みたいな事だろうと思われまして、僕は太陽のその辺は不勉強なので、ちょっと詳しく調べてみれば、たしかに宇宙にある他の恒星の中には、太陽の何百倍の大きさの星もあるらしく、宇宙では太陽など在り来りな星とも言えまして、そして太陽はたしかに水素とヘリウムのガスで出来ており、水素が超高温、高圧で核融合反応をし、ヘリウムに変わる事によって、光と熱が発生しているそうでして、太陽はその核融合反応を、五十億年も前から飽きもせず、アホのように繰り返し続けているそうであり、そしていずれ水素が無くなれば、白い燃えカスみたいな固まりになって、星としての一生を終え、たしかに死んでしまうそうで、これらを参考にしてみれば、「太陽の奴めっ、何がラー様だ!平凡なガス野郎じゃねぇか!」という風にも思えて来て、そしてまた、「いつか太陽も燃えカスになって死ぬ」といった、具体的な死に方を知ってしまった僕は、少なからずショックを受けてしまったのでした。

 太陽を「カスになるまでずっと燃えてるだけのモノ」と考えたら、太陽になりたいという気持ちも何だか失せてしまいそうです。しかしながらそんな太陽に、地球はあくまで寄生せねばなりませんから、「太陽しっかりしろ!カスになるな!」と太陽に向かって言いたくもなります。もちろんこんな地上の卑小なイキモノの声など、届くはずもありませんけれども、またちょっと詳しく調べてみれば、そんな事を言われずとも、太陽の燃えるガスの具合では、燃えカスになるまであと五十億年かかるそうで、太陽はまだまだ現役であり、更に言えば、今は太陽の一生の中で、働き盛りと言える時期なのだそうです。ですので、現在地球上において、資源や食料など様々な問題が山積みであるという風な、終末観をあおる意見を割と耳にいたしますが、太陽にとっての終末は、五十億年先という、はるかはるか凄い未来な訳でして、太陽をこの先ずっと当てに出来るという意味では、人類もまだまだ終末など来ず、気が遠くなるほど続く可能性が、あると言えるのかも知れません。




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